哲学の方法その二:哲学と科学

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「思想と動くもの」への緒論第二部の主要なテーマは、哲学と科学の関係についてである。このことにベルグソンがこだわるのは、かれの説が反科学主義だとの批判が強く出されたからであった。そういう批判が出るのは、科学と哲学との関係が正しく理解されておらず、哲学は科学を厳密化したものだとか、科学を基礎づけるものだとかいう考えが広まっているからだ。ベルグソンはそうした誤解を解消して、哲学と科学とのあるべき関係を模索するのである。

ベルグソンによれば、哲学と科学とは、対象も方法も違う。科学の対象は物質的な自然であって、その方法は概念的なものである。科学は事象の分析から普遍観念を引き出し、その普遍観念にもとづいて世界を解釈する。それに対して哲学の対象は人間の精神世界であり、その方法は直観の重視である。物質的な自然界と人間の精神界とは、デカルト以来相互の関係が問題とされてきたが、ベルグソンはそれらを全く異なったものだと考える。人間の精神界を物質的自然の一領域だと割り切るわけにはいかない。割り切れる部分もあるが、それに留まるものではない。人間の精神界にはそれ独自の内容があるのであり、それは科学によっては解明できないのである。

だからといって科学を軽視するわけではないとベルグソンは言う。科学はその対象である自然の理解という点ではすばらしい業績を上げている。それは人間の悟性による成果であり、人間の能力のすばらしさを物語るものである。それに対して哲学のほうは人間の精神世界を対象としているのであるから、両者は別のものとして、それぞれの利点と領域を持っている。このように科学と哲学とをはっきり区別したうえで、この二つのものに平等の価値を認めるというのがベルグソンの基本的な立場であり、科学軽視とか反科学主義とかいう批判はあたらないと言うのである。

とはいえ、物質と精神とがまったく別物であり、相重なる部分がないというわけでもない。精神活動の一部、とくに表層意識にかかる部分は物質である肉体と密接な関連を有している。だから心理学のような分析的な科学によって精神が解明される部分はある。だがそれで精神世界全体が解明されるわけではない。そういうやり方では、「単に物体の物理学の模倣をした精神の物理学を得るに止まる。この二つの物理学が一緒になって構成する事象の完足的な体系は、人がよく哲学と呼んでいるものである。こういう意味の哲学は、物質に属するものを精神に拡張したものにすぎない。のであるから、精神の持つ固有に精神的なところを見逃すことがどうしてわからないのであろう」(河野訳)

ベルグソンが「科学と並べて考えている哲学は、それとは違ったものである。科学に対しては悟性の力だけに頼って物質を究める能力を認め、哲学は精神を自分のものとして取っておく。この自分に固有な領域において哲学は、思考の新しい機能を展開しようというわけである」

ベルグソンが考えるところの哲学の固有な領域としての精神とは、どのようなものか。精神の本質は持続だというのがベルグソンの基本的な考えであるが、それとあわせて精神には意識的な部分と無意識の部分とがあるとベルグソンは考えている。普通、精神というと、意識の働きと同一視され、無意識は考慮されない。しかしフロイトが明らかにしたように、人間の精神には無意識の部分が厳然として存在する。その無意識をあわせた精神のはたらきの全体を対象としなければならない。ところが科学主義的な哲学は、デカルトがそうであったように、明証な意識のみを対象とする。明証な意識とは意識の表層部分をさしている。その部分では概念的な思考が行われ、したがって科学の対象となる部分もある。だがそれで明らかになるのは、精神のほんの一部分にすぎない。精神の全体像に迫るには、別のアプローチをとる必要がある。それが哲学固有のアプローチであり、それを支えるのは直観なのである。ともあれ、科学も哲学もそれぞれの立場から精神にアプローチする。同じ対象に向っている限り、両者は協力の関係にある。相互に排除しあうわけではない。科学は人間の表層意識を専ら対象とし、哲学は無意識を含めた精神活動全般を対象とすると言えるのである。

こう整理したうえでベルグソンは、直観の意義について詳細な議論をする。ベルグソンは言う、「そこで私の言う直観は何よりも内面的持続に向う。それが捉えるのは、併置ではない継起、内部からの成長、未来に跨る現在における途切れない延長である。それは精神に対する直接の知覚である。間に挟まるものは一つもなくなる。空間を一面とし言語を他の面とするプリズムを通した屈折はなくなる。互いに隣接する状態が互いに併置された言葉となる代わりに、そこにあるのは内生活の不可分な従って実体的な連続である。つまり直観は先ず意識を意味するが、その意識は直接的な意識であり、見られた対象と殆ど区別のない視覚であり、接触にとどまらず合致となる認識である」

これを砕いて言えば、意識に直接与えられ、悟性による介入を経る前のむき出しの知覚をさして直観と言うわけである。悟性による介入とは、具体的には対象を分節する作用をさす。カントが認識枠組と呼んだものだ。その分節を経る以前のむき出しの直観は、本来持続の中で与えられる。その持続は分断されておらず、したがって過去と現在とは一続きのものとしてつながっている。我々が過去と呼んでいるものは、とりあえず意識の対象から漏れたものを言う。我々が意識の中で強く現前化したものが現在の中心を占め、それ以外のものは過去に沈殿していく。過去に沈殿したものは、意識されないものとして無意識と呼ばれるが、なにかのきっかけで意識の表面に浮かび上がってくる。これを心理学は、脳髄のある部分に記憶として蓄えられていたものが、想起によって現前化すると説明するが、本来は現在も過去もつながっているのであり、問題は意識がどの部分に着目するかということなのである。意識が直接向う部分が現在として現前化するわけである。

要するにベルグソンの精神についての考えは、精神現象は持続であって、現在と過去は一つのものとしてつながっているということ、そして人間の意識には限界があるから、対象のほんの一部が現前化されるにとどまり、大部分は無意識として意識の底に沈殿するというものである。この無意識についてのベルグソンの見方はかなりユニークなものである。ベルグソンは対象を分節するのは悟性の働きであるとする。悟性によって分節されたものが、意識を占めて現前化するわけで、その分節から漏れたものは意識されない。それが無意識の内実をなす、という具合に考える。してみれば人間の意識は、知覚のうちのほんの一部分しか活用していないということになる。それは知覚のうちから、人間として必要な部分に注意を集中するということを意味し、それなりに有意義な働きなのだが、しかしその働きから漏れるものが全く意義のないものだともいえない。むしろそちらのほうに、トータルな人間としての有意義なものが含まれている可能性はある。

無意識についてのベルグソンのユニークな見方のもう一つのものとして、個人の個別的な無意識のほかに各個人に通底する一般的な無意識の存在を想定していることである。それをベルグソンは「心理的浸入」と呼んでいる。そして「直観は我々を意識一般の中に導き入れる」とも言っている。これは、とりあえずはユングの集合的〔無〕意識を思わせる言葉だが、ベルグソンはユングからそうした思想を受け継いだのではなく、ユダヤ教の神秘主義の伝統から受け継いだのだと思われる。ユダヤ教の神秘主義には、人間の精神活動を表層意識と無意識からなる重層的なものとしたうえで、その精神を実体的なものとして考える傾向が指摘される。実体的なものであるから、単なる精神現象ではなく、精神という実体が存在するということになる。そういうものとしての精神が、一般精神として集合的性格を獲得することは不自然ではない。






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