吉田裕「昭和天皇の終戦史」

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吉田裕の著作「昭和天皇の終戦史」は、「昭和天皇独白録」の公表に強く刺激されて書いたものだ。この「独白録」の所在が新聞各紙で報じられたのは1990年11月のこと、その直後には全文が「文芸春秋」1990年12月号に掲載された。吉田が「昭和天皇の終戦史」を岩波新書から出したのは1992年12月のことだから、かなりのスピード感をもって、この著作に取り組んだわけだ、

この「独白録」は、昭和史の第一級資料であるので、小生も当然のこととして読んだ。読んでの印象は、小生がそれまで昭和天皇に抱いていたイメージを大きくくつがえすものだった。昭和天皇は、基本的には立憲君主としてのわきまえを以て、抑制的に政治にかかわってきたというのが小生の漠然としたイメージだったのだが、実はそうではなく、かなり主体的に政治にかかわっていたということが、昭和天皇自身の口を通じて伝わってきたのである。昭和天皇は、対中戦争や日米戦争にも深くかかわり、敗戦を指導したのも昭和天皇自身だった、ということがこの「独白録」を通じて強く伝わってきた。だから、昭和天皇には、先の大戦についてかなりの責任を負っているという印象を新たにしたのであるが、かといってそれを積極的に追求しようとする気持は持たなかった。

吉田のこの本を読んで、小生は昭和天皇の戦争責任はもっと追及されてしかるべきだとの考えを強めた。それほどこの本は、昭和天皇の戦争責任について考えさせる内容を持っている。

この「独白録」の受け止め方は人様々であるが、吉田はこれを、昭和天皇が自らの自己保身のために作成させた文書だと見ている。その見方を裏付けるために、この一冊が書かれたといってよい。

終戦直後に昭和天皇の頭を占領した問題は、自らの戦争責任を如何にして回避するかということだった、と吉田は見ている。天皇のその意向を、側近グループが体現し、さまざまな働きかけをおこなった。この文書の作成も、そうした働きかけの一環としてなされたもので、昭和天皇の平和主義者としての性格と、昭和天皇が戦争終結に向けて注いだ努力を強調してみせることで、折から高まっていた天皇退位論や皇室への風当たりを幾分やわらげるためにこの文書を作成させたのであり、読ませる相手としては、占領当局の有力なメンバーが想定されていた。かれらに読ませるために、英文のテクストまで用意された。

そんなわけだから、この「独白録」の中の昭和天皇の発言は、非常に自己中心的で、弁明的な色彩の強いものだった。昭和天皇は、自分の発言の意義を強調するために、自分が専制的な権力を持った独裁者ではなく、立憲君主としてつつましく行動したと協調する一方、戦争を積極的に押し進めた者らを強く批判した。そして、戦争の責任を軍部とくに陸軍に押し付けて、自分はその傀儡だったかのような言い方をしている。昭和天皇の思惑は成功して、結果として軍部に戦争責任をすべて押し付け、自分自身及び皇室はほぼ無傷のまま生き残ることができた。そういう意味でこの文書はきわめて政治的な文書だと吉田は見ている。巷間言われているような、単なる反省のためのものではないのである。

昭和天皇の利己主義を感じさせるものとしては、近衛文麿や高松宮をはじめ、自分を脅かすと感じた人々をかなりきつい口調で批判していることである。近衛も高松宮も、事態の混乱を収拾するためには昭和天皇の退位が必要と考えていたのだったが、それが昭和天皇には自分に対する脅威と映ったのだろう。これは理由があっての反発だが、昭和天皇の人物に対する好悪を反映した発言もかなりある。昭和天皇は人見知りが激しい性格だったらしく、人物に接するに好悪観をむき出しにしたらしい。その好悪感は、陸軍の軍人に対しては厳しく働き、海軍の軍人に対しては緩く働いた。昭和天皇は、信頼できる側近として、海軍の軍人出身者を好んで採用し、陸軍の軍人を嫌っていたフシがある。陸軍出身の田中義一に、張作霖爆殺事件の責任をもちだして、詰め腹を切らせたのはその顕著な例である。

どういうわけか、東条英機に対しては嫌悪感を表明していないばかりか、その人柄を信頼するかの如き発言もしている。これは意外なことに聞こえるが、昭和天皇の偽らざる印象だったのだろう。じっさい東条は、日本を惨めな戦いに駆り立てた張本人であることには間違いないが、決して唾棄すべきような卑劣な人間ではなかったらしい側面も感じられる。この本を読むと、東條は昭和天皇をはじめとする日本の支配層の大部分の戦争責任を一身に背負って断罪されたお人よしのように見えてくる。東條はもともと南部藩のお抱え能楽師(脇宝生)の家柄であり、芝居がかったところもあったらしいから、そうしたお人よしな面は生まれながらのものかもしれない。

ともあれ、その東条も含めて、自分がかつて色々な面で依存した人物に対して、昭和天皇には人間的な感情が欠けていたように伝わってくる。その象徴的な事例は、木戸幸一に対する昭和天皇の態度だ。木戸は昭和天皇を守るために最大の努力をし、また、A級戦犯として有罪判決を受けたのだったが、その木戸に対して昭和天皇は、裁判が終わるまではその力を利用しようとしたのに、一旦裁判が終わって自分自身の身の安全が保証されると、一転して無視を決め込んだ。それを木戸は、意外なあしらいをされたというような言い方で不満を示している。

しかし、戦争責任を逃れることにやっきになったのは、昭和天皇だけではない。日本の中枢にいたすべての人間がみな同じことを考え、自己保身のために行動した。その結果、東条一人が罪を背負ってそうした連中を助けてやったといえなくもない。そうした状況を、同じくA級戦犯に問われた大川周明が次のように批判している。「いずれにもせよ、戦争は東条一人で始めたような具合になってしまった。誰も彼も反対したが戦争が始まったというのだから、こんな馬鹿げた話はない。日本を代表するA級戦犯の連中、実に永久の恥さらしどもだ」

もっともその大川自身、法廷で佯狂ぶりを演じ、精神錯乱で罪を逃れたのはよく知られた事実である。その佯狂の演技に大川は、東条を利用したわけだから、かれもまた東条一人に罪を押し付けた「永久の恥さらし」の一人であるに違いはない。

東京裁判で死刑判決を受けた七人のうち、広田弘毅以外はすべて陸軍の軍人である。これに対して陸軍の連中が激怒したのは無理もない。しかしそれはかれらがお人よしだったためなので、お人よしでは厳しい世の中を生き残れないということを身をもって知らしめたと言えなくもない。要領のいい連中が、最終的に生き残るというわけである。その要領のいい連中の頂点にいたのが、昭和天皇とその側近グループだったと吉田は言いたかったようである。





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