柔らかな頬:桐野夏生

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「柔らかな頬」は、桐野夏生に直木賞をもたらした作品である。桐野自身は、これに先立って発表した「OUT」で受賞することを期待していたらしいが、それがかなわなかったのは、反社会的・反道徳的なところが忌避されたからだろうと推測している。たしかに平凡な主婦たちが殺人を犯し、あまつさえ死体をバラバラに解体するというのはショッキングだし、しかもその死体解剖をビジネスとするに至っては、いくら想像の世界のことではあっても、やりすぎだと思われるのも無理はない。

その「OUT」に先立って、桐野は「柔らかな頬」と題する作品を書いていた。ところが編集者からいろいろ注文を言われて嫌気が差し、その作品をボツにして「OUT」に取り掛かったと言っている。その「OUT」が直木賞を取れなかったので、取れるような作品を書いたのが、この「柔らかな頬」だったわけだが、これとそもそもの「柔らかな頬」との間にどのような関係があるのかはわからない。オリジナルバージョンは、作家活動の初期に手がけていた「村野ミロ」シリーズの一冊として書いたということだから、この最終形のバージョンとは関係がないのだろう。「村野ミロ」シリーズは、若年層向けの軽いタッチのミステリー小説で、直木賞の対象になるようなものではなかった。直木賞にこだわっていたらしい桐野は、タイトルだけ生かして、中身は全く違った作品を書いたのだろう。

「OUT」のテーマは主婦たちの殺人だったが、この「柔らかな頬」のテーマは、子どもの失踪である。平凡な主婦がある妻子もちの男と不倫の関係に陥る。その主婦はその不倫関係に執着すると同時に、強い罪の意識も感じている。その罪を罰せられたかのように、ある日突然愛する娘が姿を消してしまった。取り残された主婦は、必死になった娘を取り戻そうとしてあがく。この小説は、そうした主婦のあがく気持に沿って展開していくのである。

「OUT」で確立した三人称多視点という手法によって書かれている。三人称多視点と言うのは、何人かの登場人物のそれぞれの視点からみた事態の進行を三人称の形で書いていく。それぞれの視点は独立していて、それらから見た事態の進行は一見偶然のように見えるが、それらが互いに組み合わさると、そこから必然性のようなものが浮かびあがってくる。だから、個々の人物は偶然に振り回されているように見えるが、実は見えない糸によって操られている、といったふうに感じさせる手法である。

この小説には、そうした視点の主体として、三人の人物が出てくる。主人公のカスミという女性、カスミの愛人石山、そしてカスミの求める子どもを捜してやろうと思った元刑事内海である。この三人が、それぞれの視点から小説の要素となる事態の進行を語っていく。あくまでも三人称でだ。フォークナー以来の多元的な語り口の伝統においては、複数の語り手はそれぞれ自分の言葉で、つまり一人称で語るのであるが、桐野の場合には、三人称で語っていく。そのほうが、状況をくっきりと浮かばせやすく、小説としてすっきりした体裁が作りやすいと考えたからだろう。桐野には合理性を重んじる傾向があって、文章もなるべく論理的に書こうとしているフシがあるから、いきおい、一人称より三人称を選んだということなのだろう。後になると、たとえば「東京島」や「女神記」といった小説で、一人称の語り口を取り入れるようにもなるが、この「柔らかな頬」の段階では、あくまでも三人称にこだわっている。

かすみ、石山、内海の三人とも、それぞれ自分の生い立ちとか、これまでの人間関係のあり方を語る一方で、自分と事件とのかかわりを語る。無論三人称なので、自分の口から語るわけではなく、作者を通じて語るのである。

かすみは、かなり謎の多い人間として語られている。彼女は北海道の留萌の海岸地帯に生まれ育ったということになっており、高校卒業と同時に家出をして単身東京に出てきた。そこで勤め先の社長と結婚し、二人の子ども(有香と梨沙の姉妹)を生み育てる。彼女は夫の取引先だった石山という男と、不倫の関係に陥る。しかも、石山が支笏湖付近に買った別荘に、家族揃って招待され、その別荘で夫たちの目を盗んで石山とセックスにふけるという大胆な行為に及ぶのだ。その行為をした翌朝に、長女の有香が忽然と姿を消した。必死になって探したが、手がかりが見つからない。あきらめきれないカスミは、毎年現場に足を運んで事件の手がかりを求めている。そんな矢先に、テレビの失踪番組で紹介されたことがきっかけで、新たな情報提供がなされる。カスミはそれに望みをかける。

ここまでのところでも、物語の設定にはかなりな無理があることは伺える。カスミが石山と不倫関係になったのは、カスミの異常性欲がさせたというふうに語られているが、それではあまりにも単純すぎる。また、カスミの長女有香が突然姿を消したという設定もかなり不自然だ。結局有香が失踪した事件は迷宮入りして、結論が出ない。状況からして、何者かに連れ去られたことは間違いないらしいが、疑わしい人物にはアリバイがあったりして、その人物を特定できない。それらしき人物でさえも特定できないのである。だからこれは完全犯罪と言ってよいが、それにしては動機が明らかでないし、また大規模な捜査にかかわらず何の手がかりも得られないというのも不自然だ。警察が手を抜いたからだとも伝わってくる。じっさいカスミは警察に強い不信感を持っているのだ。

二人目の語り手として、元刑事の内海が出てくる。内海は肺がんをこじらせて、余命幾許もないと医師から宣告されている。たまたまテレビで有香の失踪事件を見た内海は、冥土の土産にこの事件の被害者有香を探し出してやろうと決意する。かくして内海は、人生最後の日々をカスミとともに、有香の手がかりを求めることに費やす。結局手がかりは得られず、内海は寿命が尽きて静かに死んでいく。かれが死んだ家は、カスミの実母の家だった。カスミは十八歳で家出した後、二十年ぶりに実母と会ったのだ。もしかして実母のところに有香が匿われているのではないかと思ったのだが、それは根拠のない思い込みだった。ただ一つはっきりしてきたのは、カスミが内海に特別な感情を抱くに至ったということだ。カスミは内海に抱かれることを求めるようになったのである。そんなところにもカスミという女のわかりにくさがある。彼女は男なしではいられないタチのようなのだ。

内海の次には石山が語る。石山はカスミの前から姿を消したあと、妻とは離婚し、仕事は行き詰まり、借金取りに負われる身になる。そうして流れ着いた北海道でさる若い女と出会い、その女のヒモとなる。そんな状態で、事件現場の別荘付近でカスミと再会する。この石山は、カスミの人生を狂わせた男ということになっているが、その割に、事件の進行にとって大した役割を果たしているわけではない。事件の進行にとっての決定的な役割は、カスミと内海が担うのだ。

というわけで、少女の失踪事件とその解明をめぐるミステリー小説といった体裁の作品といえる。小さな子どもの失踪という点では、いまから二年ほど前(2019年9月)にほとんど同じような構図の事件が山梨県で起きた。小さな子どもが、親が目を話したわずかな時間の合間に姿を消してしまったというものだ。まるで桐野のこの小説を現実化したようなものだった、その山梨の事件もいまだ解決されていない。

この小説では、絶望に陥ったカスミが新興宗教に脚を踏み入れる場面が出てくる。教祖の男に自分の悩みを打ち明けると、男はそれを素直に受け入れてくれるので、いささかでも気持ちが楽になるのをカスミは覚えるのだ。もっともその宗教へのかかわりは、深堀されることはない。教祖は、警察に監禁されたことで、カスミの生活圏からは消えてしまうのだ。だからほとんど意味を持たないといってもよいのだが、興味深いことは、その教祖の行為が「イエスの箱舟」を連想させることだ。「イエスの箱舟」の教祖は大勢の女をつれて放浪したということだが、そこには性的な搾取はなかったと言われる。この小説の中の教祖は、女に手を出す好色漢として描かれている。





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