小説「グロテスク」のポリフォニックな構成

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桐野夏生の小説は、複数の視点を絡ませながら、物語を立体的に展開するという特徴がある。いまでも小説の普通の書き方は、ある一定の(つまり語り手を含めた一人物の)視点から描くというものだが、桐野の場合には、登場人物の幾人かにそれぞれ別途に語らせ、その間に微妙な差異を持ち込みながら、全体としてつじつまのあうような物語にまとめあげる。このような複数の視点を小説に持ち込んだのは、とりあえずはフォークナーだったわけだが、それ以前ドストエフスキーが試みていた。ドストエフスキーの小説の手法は、さまざまな登場人物に勝手なことを言わせるというもので、それをバフチンはポリフォニーと呼んだ。桐野の小説、とくに「グロテスク」には、そのフォリフォニーの要素が強い。ポリフォニーによって構成された小説あるいは小説のポリフォニックな構成と言ってもよい。

「グロテスク」の主要な語り手は、「わたし」である。本当の名前があるはずなのだが、小説の中では「平田さんのオネエさん」とか「ユリコの姉」と言及される。彼女には平田ユリコという妹がいて、小説の中で決定的な役割を果たすのだ。この小説は彼女ら姉妹の関係を中心にして展開していく。というのも語り手は、自分自身ユリコの姉としての自覚しかもっておらず、ユリコと自分との関係性に生涯こだわり続ける存在なのである。

ユリコのほかに登場する人物としては、Q高校で出会った人々がいる。同級生の佐藤和恵とミツル、一年年下でユリコとつるむようになる木島高志、ユリコと佐藤和恵を殺したと思われるチャンという中国人。このほか「わたし」の祖父とか木島の父親とか、和恵やミツルの家族たちが出てくるが、かれらは周辺的な位置づけで、小説を展開していくプレーヤーたちは、わたし、ユリコ、佐藤和恵、チャンの四人である。かれらがそれぞれの立場から勝手なことを言ったり書いたりする。それら相互には一致するところも齟齬するところもあるが、つき合わせてみれば、全体としては納得できる筋書きになっているのである。

小説は、「わたし」が一応キープレーヤーになっている。筋書きの展開は彼女の視点によってコントロールされている。その視点に、主な登場意人物の視点が並行的にかかわってくる。ユリコは手記を残し、佐藤和恵は自分で売春日記といっているものを残し、チャンは法廷に弁明書を提出した。それらの内容が、わたしの語りを補強したり、あるいは別のことを語ったりして、小説の展開に厚みをもたせているわけである。それらはみな人間の声を直接想起させるから、読者はそこに倍音のようなものを感じる。その倍音を言い換えればポリフォニーということになろう。

「わたし」は、誰かに向って語りかけているようなのだが、それが具体的に誰なのかはわからない。どうやら抽象的な意味での読者に向って語りかけているようである。その語り方には、当然のことながら自己中心的なところがある。彼女は、妹のユリコとの関係でも、友だちとの関係でも、劣等感を持たざるをえない立場であり、したがってコンプレックスの塊なのだが、それについて半ばは開きなおりながらも、自分の存在を実像以上に拡大して見せたがるところがある。そうした彼女の夜郎自大的な自己イメージは、他の人々の視点によって相殺されるであろう。

小説は、この「わたし」の幼年期の記憶から始まる。そこでメーンになるのは、妹ユリコとの関係であり、またQ高校での経験である。彼女はユリコへの劣等感から、ともに生きることを拒絶し、家族が解体して二人きりになっても、一緒になることを拒絶し続けた。ユリコが娼婦的な生活にはまり込んでいく理由の一つは、姉にも見放されて、一人で生きていかざるをえなかったことにもある。なにしろ、まだ中学生の身で、天涯孤独の身となるのである。その天涯孤独の身を支える為に、彼女は売春に走るのだ。金を作るには、彼女の立場としては、売春するほかに手はなかったのだ。

ともあれ、この小説の中のユリコは、徹底して娼婦の資質を持つ存在として描かれる。彼女の残した手記のなかでも、ユリコはセックスが好きな根っからの娼婦として自覚しているように描かれる。一方では、死への願望を持っているようでもあるので、自分の人生に絶望していることは明らかだ。

もう一人の娼婦となった佐藤和恵は、なぜ娼婦になったかについて非自覚的である。自分では金を設けるためだと言っているが、実際のところはわからない。この佐藤和恵が、この小説を書くきっかけとなった、例のOL殺人事件の被害者をモデルとしている。どこまで本人の実像に忠実なのかはわからない。おそらく事件はただのきっかけで、桐野の完全な創造だと思う。

実際の事件で冤罪を蒙ったネパール人は、この小説ではチャンという中国人にかわっているが、この人物像も桐野の完全な創造であろう。チャンは、裁判所向けの陳述書では自分を憐れな存在として描いているが、佐藤和恵やユリコの目には、粗暴で狡猾な人間として映っている。小説の中では、チャンによる殺害のシーンは直接的には出て来ないので、読者は前後左右の文脈の中から、かれが二人を殺したのだろうと推測するのみである。現実に起きた東電OLの殺害事件についても、直接の物証は発見されておらず、単なる状況証拠にもとづいて推測されたのであり、それが冤罪につながったわけでもあった。

この小説には不可解な部分が多く、それはそれぞれの人物の独り言のようなものの組み合わせからなるということに基づいているのだが、そのなかで一番不可解なのは、「わたし」が娼婦になることである。小説では、金に困った「わたし」と、ユリコの残した息子ユリオとが、金に困って体を売ることを思いついたということになっている。そこがあまりに唐突なので、読者は不自然なものを感じるのである。というのも、「わたし」は単に金儲けのためではなく、性交すること自体に快楽を感じるようになるからだ。「わたし」には、それまでセックス体験はなかったのである。それが、ユリコと佐藤和恵の生きかたを詳しく知るにつけて、自分自身もセックスへの強烈な願望をかきたてられたのではないか、と伝わってくるのである。

ともあれ、この小説の中に出てくる人物たちは、誰もが深いコンプレックスを抱えている。そのコンプレックスから迸り出る言葉が音響として交差することで、そこに独特なポリフォニーが成立するということだろう。そのコンプレックスをもっとも強く感じさせる言葉を、OL殺人事件の被害者をモデルとしたらしい佐藤和恵が吐いている。いわく、「光り輝く夜のあたしをみてくれ」。彼女は世界の闇のなかから、自分が輝き出すところを、ひとに認めてほしかったのだろう。とすれば、彼女が娼婦になったのは、評価願望からだったということになる。





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