奴隷小説:桐野夏生を読む

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「奴隷小説」は、タイトルどおり奴隷的境遇に置かれた人間たちをモチーフにした連作短編小説集である。七つの小話からなっている。小話相互には関連性はない。時代もバラバラだが、一応日本人の身に起きたことを描いているようである。奴隷的な境遇は、過去においてはいざ知らず、現代日本においては、表向きは存在しないことになっているから、これらの小話のほとんどは、荒唐無稽な想像力の産物として受け取るべきかもしれない。だが、その割にリアリティを感じさせ、もしかしたらこれは現実に起きているのではないかと思わせることころに、桐野の筆の冴えがある。

「雀」は、舌を抜かれた女の娘を主人公にした小話である。母親が舌を抜かれたのは、村の権力者の意向に逆らったためだった。その村では、権力者は神様のように敬われ、その意思に反することは神への冒涜とみなされる。そこで、目を刳り抜かれたり、舌を抜かれたりする。これは、もしかしたら荒唐無稽なことでは決してなく、十分ありうる話だと思わせられる。現在の日本でも、ありえない話ではない。たしかに、権力を批判したからといって、実際に舌を抜かれたり目を刳り抜かれたりすることはないが、見て見ぬふりを強いられたり、沈黙を余儀なくされることはある。それらは、比喩的な意味では、舌を抜かれたり目を刳り抜かれたりするのとたいして変りはない。主人公の娘は、権力者の意向に従って妾になるか、それとも舌を抜かれても拒絶するか、その間で逡巡する、というような話である。

「泥」は、何者かによって誘拐・拉致された少女たちの話である。彼女らが誘拐されたのは、身代金目的のためだ。ところが身代金の交渉が決裂する。そこで彼女らは、人質としての価値を失い、そのかわりに、美しく処女であるものは金持ちの嫁にさせられ、それ以外は奴隷として売られることになる。この話も決して荒唐無稽ではない。じっさいアフリカでは、同じような少女誘拐事件が多発して世界の耳目を集めたところだ。日本でだっていつ同じようなことがおこるかもしれない、そう思わせるところにこの小話の怖さがある。

「神様男」は、アイドルにあこがれる少女の話である。少女たちは、アイドルになりたい一心でさまざまな無理を重ねる。そんな彼女らに付け入って一儲けする連中がいる。そうした連中は、少女には神様なのである。この神様は、少女たちの熱い信仰に寄生する形で、役得を追求する。こんな話なら、たしかに、日本を含め世界中で日常的に起きていることだ。問題は、渦中の少女たちに、自分が名声の奴隷だという自覚がないことだ。

「REAL」は、ブラジルのサンパウロを舞台にした小話で、フェベーラと呼ばれるスラムがモチーフだ。そのスラムでは、子どもたちはギャングになるか売春婦になるか、それくらいの選択肢しか持たない、そこで元売春婦だったという若い娘と出会った日本人の女が、その娘を介して自分自身の娘を思い出す、というような内容である。この小話では、奴隷的境遇がそのままストレートに描かれることはない。ただ、スラムがそういう境遇をもたらしやすいと暗示されるだけである。

「ただセックスがしたいだけ」は、北国おそらく北海道の炭鉱地帯が舞台である。その炭鉱地帯のいわゆるタコ部屋で働く男たちの話だ。そういうたこ部屋は近世の日本には実際に存在した。それはまさしく奴隷的境遇といってよかった。そんな境遇でも、人間は希望を失わずにいることができる。その希望の源泉は女だ、というような内容の話である。男たちは、冬の間に山の中から現われる女たちと束の間のセックスを楽しむ。それが男たちに生きる希望を与えるというのだ。その男たちの日常生活が淡々と描かれるところが面白い、男たちは、共同便所の踏み板に跨って糞を垂れるのだが、真冬になると、寒さのために糞は尻の穴から出た途端に凍ってしまう。凍った糞は山のように盛り上がる。そんな様子が淡々とした筆致で描かれる。それを読むと、桐野の独特な露悪的感性が伝わってくるようである。

「告白」は、徳川時代の初期寛永年間にインドのゴアにわたった日本人の話だ。その男は、殺人を犯したために日本にいられなくなり、はるばるインドのゴアまでやってくる。そこで不思議な日本人たちと出会い、かれらから身の上話を聞かされる、というような内容の話である。これは必ずしも奴隷的境遇の話ではないが、身の絵話の中でそういう境遇に陥ったというような話も出てくるので、あながち無関係というわけでもない。というのは、大名同士が戦争をしたときに、相手の領民を捕獲して、奴隷として売り飛ばすことが行われていた。これを「らんどり」と称するのだが、日本にはかつて、こうした奴隷狩りが日常的に行われていたということを暗示するような小話である。

「山羊の目は空を青く映すか」は、ゲットーのようなところに封じ込められた囚人たちの話である。囚人たちはみな政治犯で、権力に逆らったためにここに封じ込められたことになっている。ゲットーには権力の手先がいて、「監視様」と呼ばれている。監視の権力は絶大で、気まぐれに囚人を殺すことができる。じっさいこの小説の主人公である少年も、父親が殺されたのに引き続き、自分も殺される運命にあることを悟るのである。ゲットーはまさしくユダヤ人ゲットーを想起させ、監視たち権力者はナチスを想起させる。ゲットーは、あのオーウェルが考えたようなディストピアではないが、人間性のかけらまでが失われることでは、究極のディストピアといえる。桐野のディストピア小説「日没」もそうした状況を描いていた。彼女にとってのディストピアは、観力がむき出しの形で人々に暴力を行使するような状態だったようだ。その意味ではこの小話は、「日没」へと発展していく桐野のディストピアのイメージを先取りしたものといえよう。

桐野の小説世界は、犯罪とか売春とか、物欲とかただれたセックスとか、とかくに人間の背徳的な面に光を宛てたものが多かったが、権力と直接向き合うような作品はなかったといってよい。それがこの「奴隷小説」所載の一連の小話を通じて、権力とのかかわりを一気に前景に浮かび上がらせたということではないか。桐野は、女性作家としては非常に骨太なところがあり、人間の恥部にも臆することなく向き合う度量を持っている。その度量が、この小話集にとりあえず結実したということだろう。





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