開目抄:日蓮を読む

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「開目抄」は、日蓮が自らの信念を説いたもっとも重要な書である。日蓮はこれを佐渡へ流された直後に書いた。流されるに先立って、鎌倉龍ノ口の法難と呼ばれる事件があって、日蓮は首を切られそうになったのだったが、折からの天変地異が刑吏を尻込みさせ、九死に一生を得たのだった。日蓮は死一等を減じられて佐渡に流される。その佐渡で、自分の過去を振り返りながら、法華経の行者として、法華経の教えをあらためて説いたのである。そんなわけでこの書には、法華経の行者としての日蓮の決意が延べられるとともに、法華経の教えの核心が説かれている。「立正安国論」以前には、折伏と称して、他宗(特に念仏)への攻撃が中心だったが、ここでは、法華経がいかに優れた教えであるかについて、積極的に説明するというスタンスをとっている。いわば論証の書である。その論証を日蓮は、法華経及び涅槃経を中心とした大乗経典を根拠にしながら行っている。つまり、法華経の優れている所以を、法華経自体に求めるというやり方をとっているわけで、その点では、西洋流の形式論理になれた者には、循環論法のように見えなくもない。

全編は大別して二つの部分からなる。一つは法華経の行者としての日蓮の決意を述べた部分、もう一つは法華経が他経にすぐれている所以を述べた部分である。この両者は、互いに前後しあって、入れ子状に展開していくのであるが、ここでは便宜上、逐次別々に取り上げる。

まず、法華経の行者としての決意。日蓮には若い頃から法華経の行者としての自覚があった。しかるに度重なる迫害にあった。法華経を受持して、心から帰依していれば、法華経の功徳に守られてよいはずなのが、自分はなぜ度重なる迫害に会うのか。九死に一生を得て佐渡に流されてきた日蓮は、そう自問せずにはいられなかったようだ。その自問からから浮かび上がってきたのは、法華経の本当の行者であることが、迫害を招く原因ということだった。そのことは法華経自体が教えている。法華経は、仏滅後の世界において、法華経を受持する者が迫害されるだろうと予言しているのである。ということは、自分が迫害を受けるのは、自分が法華経を受持しているからである。これは、ある意味すばらしいことではないか。自分の身に迫害が及ぶのは、自分が本物の法華経の行者だからである。そのように考えた日蓮は、己の迫害をバネにして、法華経の行者としての自覚を一層高めるのである。

そうした日蓮の自覚は次のような言葉によく現れている。「日蓮なくは、誰をか法華経の行者として仏語をたすけん」。この末法の世において、日蓮こそが、法華経の行者として衆生の救済にあたる任務を仏から授けられているという自覚である。その自覚が、日蓮に上行菩薩としての使命感をもたらす。日蓮はたんなる法華経の行者から、上行菩薩としての立場から衆生を救済するために尽くすというのである。この書の題名「開目抄」は、衆生の盲目の目を開いて、真理に直面させるという意味である。その真理とは法華経の教えである。日蓮は今や、上行菩薩として衆生の目を開かんとするのである。

こうした上行菩薩としての自覚に関して、日蓮は次のように語っている。「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此は魂魄、佐渡の国に至りて、返る年の二月、雪中にしるして、有縁の弟子へをくれる」ものなりと。つまりいまここにいる日蓮は、かつて人間であった日蓮ではなく、その魂魄が菩薩に昇華した日蓮というわけである。ただの行者ではない。伝教大師と並ぶ法華経の大師である。「日本国に此法顕はるること二度なり。伝教大師と日蓮なりとしれ」。そういって日蓮は、自分の偉大さを宣言するのである。

次に、法華経が他経に優れたる点。日蓮は、「立正安国論」等においては、法華経の他経より優れたる所以を、天台に固有の教相判釈の方法を用いて、形式的な説明をするに甘んじてきたが、ここでは、法華経の教えの実質的な内容に踏み込んで、いわば内在的な説明をしている。日蓮は、法華経の他経に優れた所以とする特徴を、主として三つあげる。二乗作仏、久遠実成、一念三千である。

二乗作仏とは、文字通りには、声聞や縁覚にも成仏を認める思想である。法華経以前の大乗経典では、小乗の声聞・縁覚には成仏が認められていなかった。衆生のほとんどが成仏できるといいながら、小乗にそれを認めないのは、ある意味不自然なことである。その不自然を超えて、小乗の徒に成仏を認めることで、すべての衆生をカバーすることができるようになった。そのため、女人成仏や悪人成仏までが語られることになる。大乗のそもそもの教は、すべての衆生が成仏できる可能性をもっていると説くことだったので、法華経はその教を完璧なものとしたわけである。

久遠実成とは、法身の永遠性を説くものである。実在の釈迦は、わずか80年生きただけだが、その教えそのものは、永遠の昔から説かれてきた。それは、法身としての仏のなせるわざであり、実在の釈迦はその法身が一人の人間の形をとったものだ。それを応身というが、応身たる釈迦と法身たる仏を区別したうえで、法身の教えの永遠性を説いたのが、久遠実成の教えである。小乗は無論、大乗の多くの経にはこうした考えがないので、歴史上の存在としての釈迦の教えだけが着目され、法身としての仏の教えは見えなくなった。法華経はその見えない部分をも見えるようにした点で、すべての経に対して優れているといえる。

一念三千とは、法華経の世界観をあらわす言葉で、十界互具と深い関係がある。これは、一念の内に世界全体を捉えるというような意味だが、その世界全体を捉えることを通じて、人間は煩悩を克服して涅槃に至ることができるとする教えである。

その法華経の教えをもっともよく理解し、その教えを布教しているのがほかならぬ日蓮である、と言っている。日蓮は、自分だけに特有の教えを主張するのではなく、あくまでも法華経の教えを説くのだという。日蓮はだから、仏の使いという自覚を持っていたのだと思う。つまり自分を菩薩として意識していたわけだ。日蓮いわく、「鳥は飛ぶ徳、人に勝れたり。日蓮は諸経の勝劣をしること、華厳澄観、三論の嘉祥、法相慈恩、真言の弘法にすぐれたり。天台・伝教の跡をしのぶゆへなり」と。つまり日蓮は、自分を新興宗教の祖としてではなく、あくまで法華経の行者として自己認識していたわけである。

本文の結語に曰く。「日蓮が流罪、今生の小苦なれば、なげかしからず。後生には大楽をうくべければ、大によろこばし」。こうした信念が、日蓮を宗教的な情熱に駆り立てたのであろう。







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