内田樹、中田孝「一神教と国家」

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中田孝は、2015年に中東でISILによる日本人拘束事件が起きた時に、仲介役を買って出て、余計なことをするなと安倍政権に眼の敵にされ、またメディアのバッシング対象になったことで一躍有名になった。中田はイスラム研究者であり、自身イスラム教徒であることを公表している。その中田について内田は、「僕たちはまったく対立的な、相容れない立場にいる」と言っている。その意味は、内田自身はナショナリストであるのに対して、中田は国境を軽視するコスモポリタンであるということのようだ。

それでも二人の間に対話が成立したのは、どこかに互いに共感できる部分があったからだろう。それはおそらく政治の現状に対する不満であり、世界の成り立ちについての違和感なのだろうと思う。その違和感は、欧米の価値感が人類全体の標準として押し付けられていることへの反発に根差している。その反発は内田にあっては反米ナショナリズムに結びつき、中田にあってはイスラムによる欧米的価値観の相対化に走らせた、ということのようだ。

中田は、カリフ制の再建を訴えているそうだ。これは16億のイスラムを一致団結させることを目的としたものだ。イスラムはもともと国境を持たない民であったが、欧米によって人為的に引かれた国境によって、さまざまな国に分断され、場合によっては、互いに対立するようになった。これはイスラム本来のあり方ではない。イスラムはもともと国境という人為的な障壁を無視して、世界を自由に歩き回っていた。そうした本来の姿を取り戻せば、イスラム世界は一つの巨大な自由空間になれる。また、イスラムが影響力をもつことで、欧米一辺倒の考え方を相対化できる。そう考えるのだ。

一方内田は、国境をなくしてすべての人がコスモポリタンになるというのは、現実味の乏しい夢想だと考えているようである。内田も、欧米的な価値観を日本人が一方的に押し付けられる事態には反発しており、その限りで、欧米的なものを相対化しようとする意図をもっているが、それは中田のようなコスモポリタニズムには結びつかず、逆にナショナリズムに傾くということのようだ。

こうした立場の違いを踏まえながら、二人は対話を進める。タイトルには「一神教と国家」とあり、宗教や政治について語っているように見えるが、よく見ると、議論は多岐にわたっており、二人がこれまでこだわってきた問題が、幅広く取り上げられている。その中でもっともインパクトのあるのは、イスラムは非常に寛容であり、その原理に立てば世界はずっと平和になるだろうとの二人の共通した見通しである。もっとも内田はイスラム信奉者ではないから、中田のようには、イスラム万歳という気持ちにはなれないようだが。

この対談の中では、イスラムとキリスト教が鋭く対立させて論じられている。中田の考えによれば、イスラム教は砂漠の民の間でまず広まったが、砂漠の民は遊動民であった。遊動民というのは、たえず移動している人々で、ある特定の土地に縛られることがなかった。それゆえ国境という概念もなかった。世界は自由に移動できる空間だったのである。それに対してキリスト教は、ユダヤ教から出たとはいえ、ヨーロッパで広がった。そのヨーロッパの人びとは基本的には定住農民であった。定住農民は、文字通り土地に縛られており、しかたがって国境という概念と親和的である。そこからナショナリズムが生まれるというのが、内田も含めて二人の了解事項である。

このように踏まえたうえで、個人の間で不寛容な関係が支配的となり、国家の間で戦争が絶えないのは、キリスト教が体現する定住農民文化の促すところではないかというのが、二人の次の了解事項となる。一方、イスラムは、個人の間の寛容な関係と、戦争の震源たる国家の揚棄というものを要素としている。したがって、イスラムの影響力が高まれば、基本的には寛容な人間関係と戦争のない世界が実現に近づくというわけである。

このようにイスラムを積極的に評価する議論は、日本ではこれまでほとんど無かったので、この対談は非常に新鮮に映る。その対談のテーマとして一つ面白いのがあった。ユダヤ人とイスラム教徒は不倶戴天の敵と思われがちだが、実は、ユダヤの超正統主義とイスラムの原理主義とは互いに理解しあえる部分があるというのだ。その理由が簡単に触れられていたが、どうもいまひとつわかりにくかった。

なお、中田は、過激なイスラム主義者ということで、日本の公安やアメリカ国防省から目をつけられているそうだ。そんな中田の仲間とみなされたら、自分もマークされちゃうのではないかと内田は心配するのだが、自分は基本的には愛国者だから、誤解を解いてもらえるのではないかと期待している。

ともあれ二人が強く合意するのは、身体感覚の重視ということだ。その身体感覚は、資本主義システムとは相性が悪いのだが、イスラムはいまでも持っているという。人間というものは、自分の身体をふまえて行動している限り、合理的な行動をする。身体感覚を失うと、途方もないことをやるようになる。だから合理的に振る舞い続けるためには、身体感覚を失ってはならないと、二人は合意するのである。






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