勝蔓経を読むその三:一諦としての苦滅諦

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「勝蔓経」の「一諦章」は、四諦のうち苦滅諦こそが唯一絶対の真理「一諦」であると説く。われわれ凡俗が、この真理に到達できるのは、われわれ自身の中にそうした真理を獲得する能力が備わっているからであり、それを如来蔵という。経は続いてこの如来蔵について詳しく語ろうとするのであるが、如来蔵については、別に一章を設けて詳説しているので、その部分を取り上げるときにあわせて触れたいと思う。

四諦とは、釈迦がさとりを開いてはじめて説教したときに説かれた教え、すなわち初転法輪の主要内容であった。ということは、釈迦の教えをもっともストレートな形で表明したものであり、釈迦の思想のエッセンスということになる。それを簡単にいうと、苦、苦の原因、苦の滅、苦の滅に至る道という四つの諦のことである。苦というのは、この世は苦しみ以外の何物ではないという諦観であり、苦の原因とは煩悩をさし、苦の滅とは苦の原因である煩悩を滅却することであり、苦の滅に至る道とは、煩悩を脱却するためになさねばならない修行のことをいう。この四つのうち、苦の滅を感得すること、すなわち苦滅諦こそが唯一絶対の真理、「一諦」なのである。

苦の滅とは煩悩の滅却ということだが、煩悩というと、吾々凡俗はそれを存在するものとみなし、したがって苦の滅は、存在するものの消滅というふうに思いがちである。だが、そうではない。なぜなら、苦とかその原因たる煩悩とかは本来存在するものではないからだ。といって存在していないのでもない。どういうことか。

仏教では存在しないことを「空」といい、存在することを「不空」という。如来の法身には、あらゆる煩悩が非存在すなわち空である。一方、吾々凡夫に備わっている如来蔵には、あらゆる煩悩が纏いついているので、煩悩は存在すなわ不空である。さて、如来蔵が顕現して如来の法身に一体化することが吾々凡夫の目的である。その際に、吾々凡夫は、苦の滅をとおして煩悩を超脱するわけだが、その結果もたらされる効果は、単なる煩悩の消滅ではなく、そのそも煩悩が非存在であった如来の境地に一体化することなのである。したがって、苦の滅とは、苦が存在しないようになることではなく、そもそもなにも存在しなかった状態に立ち戻ることを意味する。存在は吾々凡夫の親しんだ世界のことであるのに対して、如来の世界すなわち涅槃は一切の存在を超越したものなのである。

なかなかわかりにくい論理構成である。こういう論理構成は般若経以来の空の論理に特有のものであって、西洋風の形式論理では割り切れないところがある。それを勘定に入れた上で、釈迦の説いた真理たる苦の滅とは、現世とは全く次元を異にする世界への飛躍を目指しているのだと捉えることが必要である。

このことに関連して、吾々凡夫が陥りやすい認識の罠ともいうべきものについて語られる。それは「価値を転倒した見方」と言われる。「価値の転倒」などというと、ニーチェのポレミックな主張が思い出されるが、ここで説かれているのは、そんなに複雑なことではない。「価値を転倒した見方」というのは、極端な見方というほどの意味である。それには二つあって、「両極端の見方」と言われる。

両極端の一つは、すべての存在や価値を否定する「断見」であり、もう一つは、ものの断絶、消滅、変遷を認めないで、すべてを肯定する「常見」である。もし人が「諸行無常」と見て、身体、感覚、感受作用、思惟等をこの生涯と共に消え去るものと考えるならば、それは「断見」の誤りを犯しているのである。そういう人達は、人はこの世での生を終わっても、別の生を続けるという輪廻の運命を理解していないからである。また、もし人が、「涅槃は常住」と見て、心の永続・不変性を信じるならば、その人も誤っている。なぜなら、そのような人は心の構造を知らず、心が瞬間ごとに消滅することを理解できないからである。これを仏教では「刹那滅」と呼んでいる。心は瞬間ごとに消滅しては、新たに生成するという、心の断続性についての思想である。

吾々凡夫の誤った見方の最たるものは、吾々の心身を構成する要素(五蘊)を実在するものと見なし、それらの宿る主体としての「アートマン(自我)」が存在すると思い込むことである。アートマンとは虚妄の構成物であり、常住する存在ではない。完全な意味で常住する存在は、「如来の法身」以外にない。「如来の法身」というのは、如来の永遠の本質をあらわしたものである。そこからすべてが生まれる根源である。その法身が顕在したものが応身としての釈迦であり、報身としての諸仏である。

したがって、真に存在するものは如来の法身であって、それのみが「究極完全な常住性、究極完全なアートマン、究極完全な安楽性、究極完全な清浄性」であることを理解しなければならない。





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