ハインリヒ・ハイネの時代批判

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ハインリヒ・ハイネといえば日本では、「ローレライ」や「歌の翼」といった歌曲の歌詞を書いた抒情詩人として知られてきた。かれの詩集を読む日本人は今ではあまりいないと思うが、歌曲のことは今でもよく知られているのではないか。しかし小生のようないわゆる団塊の世代に属する人間にとっては、ハイネは単なる抒情詩人ではなく、きわめて政治的なメッセージを発した革新的な文学者としての名声のほうが高かった。ハイネはマルクスやエンゲルスと親交があったし、マルクス以前に共産主義とかプロレタリアートという言葉を使っていた。要するに黎明期の社会主義者の代表的な人物だった。詩人としての名声があまりにも高いことで、政治思想家としての彼は実像より低く評価されたきらいがある。

ハイネはそうした政治性をどのように身に着けたのか。ハイネ自身の残した文章によれば、少年期のナポレオン体験が決定的な影響を及ぼしたようだ。ハイネは少年期をウェストファーレンで過ごした。そこにナポレオン軍が進駐してきて、フランスの自由な空気をドイツ人に吹き付けた。その自由な空気に接したハイネは、フランス革命の理念に目覚めるとともに、ドイツの遅れた封建制への嫌悪を掻き立てられた。そうした少年期の体験は、ハイネ終生の基本的な姿勢を形成した。ハイネはまたユダヤ人としての出自から、ドイツ人の人種差別的な傾向に憤慨していた。それもハイネの反権威的な性格に大きな影響を及ぼしたと思われる。

ハイネは両親から商人となることを期待されていたが、自身は少年時代から詩人として自覚していたようだ。そこで、変則的な形で大学生活を送り、文学的な素養を高めることをめざした。ハイネは最終的にはゲッティンゲン大学を卒業するのだが、それ以前にベルリン大学でヘーゲルから哲学を学んでいる。世界についてのハイネの見方は、基本的にはヘーゲルの影響を受けたものである。ヘーゲル哲学の基本的な特徴は、自然を含めた世界のあり方を、絶体精神が自己実現するというものであり、したがって進歩史観であった。それをハイネも受け継いで、人類はより高度な段階に向かって進歩していると考えた。ハイネによれば、フランスやイギリスはドイツよりも進歩しており、ドイツは特にフランスを見習うべきだということになる。そのフランスにしても、まだ進歩の途上であって、将来はもっと素晴らしい世の中になるはずだと考えていた。その素晴らしい将来のあり方をハイネは詳しく述べなかったが、プロレタリアートが中心となって確立されるある種の共産主義社会を考えていたように思われる。そういう面ではハイネは、20歳も年少のマルクスのよき先輩であったのである。

ハイネは生涯を通じて、ドイツ社会への批判と、フランスやイギリス社会についての時局的な分析を繰り返し、あるべき社会とは何かについて問いを投げかけ続けたといえる。ハイネの言説はあまりにも激越だったので、ドイツの官憲の睨むところとなり、フランスへの事実上の亡命を余儀なくされた程だった。ハイネがフランスに移住したのは1831年34歳でのことであり、以後1856年59歳で死ぬまで、短期間ドイツに里帰りの旅をしたほかは、フランスにとどまった。その時代のフランスは、七月革命後の第二王政から二月革命後の第二帝政にかけての時代であり、要するにブルジョワの時代だった。ブルジョワジーには反動的な面とならんで進歩的な面もあった。二月革命後に実現した普通選挙制はその象徴的なものである。そういうわけでフランスには、ドイツと比べものにならないほど言論の自由があった。ハイネはその自由を最大限に活用して、遅れたドイツへの批判と、新しいタイプの理想社会の実現を訴えたのである。もっともハイネはマルクスらとは違って行動的な革命家ではなく、あくまでも言論の士である。しかしハイネの言論の矛先は非常に鋭かった。文学の歴史の中でハイネほど政治的な信念を遠慮なく表明したものはない。

そのハイネはフランス人を、基本的には行動の人であり、頭を使うのは得意ではないとみていた。フランス人が頭を使うのは行動に促されてのことであって、したがってまず行動ありきであった。それに対してドイツ人は頭を使うことに慣れきっていて、その頭で納得できない限り行動しないタイプの人間だとハイネは考えていた。ハイネはある詩の中で、ドイツ人は頭で歩くとさえいっている。そのドイツ人の頭が生み出したものの中で、もし他の国に誇るべきものがあるとしたら、それはカントに始まるドイツ観念論哲学だろうと考えていた。その考えに基づいてハイネは「ドイツ古典哲学の本質」という本を書いたが、これは要領を得たドイツ思想史としていまでも熟読する価値をもつものである。

「ドイツ古典哲学の本質」は、カント以後の哲学史の発展に先立って、ルターの宗教改革の意義だとか、ルターとカントをつなぐ役目を果たしたスピノザについても詳しく言及している。とりわけ興味深いのは、キリスト教がドイツの固有信仰を骨抜きにする過程を分析した部分だ。キリスト教は、ドイツの固有信仰を絶滅させることはできなかったが、それを悪魔の領域のこととして位置付けることで、キリスト教の周縁に追いやった。そのドイツ固有の信仰の神々を、ハイネは流謫の神々と呼んで、キリスト教に圧迫されながら、根強く生き残っていることを感嘆の目で見ている。その同じ目で日本の固有信仰の運命を見たのが柳田国男だった。柳田は、ハイネの「流謫の神々」説を読んで、日本にもともと定住していた原日本人とも言うべき人々が、新たに日本列島にやってきた人々によって迫害され、周縁部に追いやられたと考えた。それが山人である。日本の山人はドイツの悪魔たちに匹敵するというわけである。

ハイネは政治的なパンフレットというべき文章をあらわし、自分の政治的な意見をストレートに述べたほか、短い詩のかたちでも同時代の批判を展開した。また政治的なテーマの長編詩もいくつかある。「アッタトロル」と「ドイツ冬物語」はその代表的なものである。こういう詩を読むと、ハイネにあっては政治と文学とが密接に融合していることがわかる。ハイネにとって生きるとは詩を書くことだったが、その詩がうたったのは、彼自身の政治的な心情だったのである。ハイネほど政治的な生き方をしたものは、文学者としてはほかにいないのではないか。その点ハイネはゲーテとは対照的である。ハイネの時代には、ゲーテはドイツ文学そのものだった。そのゲーテは、ドイツを力強く肯定した。基本的に体制に批判的な態度をとらなかった。そこがハイネには気にいらなかった。ハイネは生涯ゲーテへの対抗意識をもっていた。その対抗意識を、ゲーテにはなかった、あるいは弱かった、政治性において発揮しようとしたともいえる。

ハイネは五十歳頃から身体に不調を感じるようになり、その身体の不調に応じるかのように、政治的な激越さが弱まっていった。とくに二月革命については、あまり強い反応を示していない。それはハイネがプロレタリアートに暴力的なものを見たからだといわれているが、かならずしもそうは言えないところもある。ハイネは依然としてドイツへの批判と人類の進歩への共感を示す詩を書き続けていたのである。

なおハイネの抒情詩人としての側面については、女性との関係を語らないわけにはいかない。ハイネは多感な男であったが、生涯正式に結婚したのはマティルダという女性だけだった。かれはしかし女遊びが非常に好きで、その方面については、商売女で間に合わせることが多かった。ハイネほど自分の性的放埓さを、包み隠さず率直に語った文学者はいないといえる。





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