柄谷行人の社会理論

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柄谷行人は、文芸評論からキャリアを始めたが、途中からマルクスに依拠した独特の社会理論を展開するようになった。1978年に出版した「マルクスその可能性の中心」がその転機を画す仕事だ。この本の中で柄谷は、マルクスを独自に読み直して、従前とは違ったマルクス像を提示し、彼なりに解釈しなおしたマルクスに依拠しながら、独自の理論体系を構築することをめざした。後に実現したその理論体系は、日本人のものとしてはかなり壮大なものである。ここまで壮大な理論体系は彼以前の日本人には見られない。そういう点では、柄谷は日本が生んだ最初の体系家といってよい。彼以前にも、たとえば丸山真男のように、首尾一貫した理論を展開した思想家はいたが、それは日本社会の一面にスポットライトを当ててものというべきで、地球規模の社会を全体として体系的に説明したものとは言えなかった。柄谷は地球規模の社会を全体として体系的かつ整合的に説明するとともに、その将来へ向けての変革についても一定の展望を示した。そういう点では、かれが手本としたマルクスに十分対抗できるだけの規模をもった思想家といえよう。

柄谷によるマルクス解釈はかなり独特なものである。マルクスの社会理論は、「史的唯物論」という言葉で説明されてきたもので、単純化していえば、人類の歴史を生産の観点から見るものである。生産関係が社会の土台であり、下部構造を形成する。その下部構造の上に政治的・文化的な上部構造が形成される。下部構造と上部構造とは、下部構造が上部構造を一義的に規定するというような関係にある。そしてそうした社会のあり方は、一定の方向に向かって進歩していくという傾向をもっている。その傾向は必然的なもので、その必然性が、歴史的な社会システムである資本主義の崩壊をもたらす。そうした歴史の必然性という見方は、マルクスがヘーゲルから受け継いだものである。マルクスへのヘーゲルの影響は徹底しており、そのため「資本論」の叙述の方法もヘーゲルの「論理学」の方法を採用しているほどである。

これがマルクスについての標準的な見方だった。その見方を柄谷は徹底的に解体して、自分なりの見方を提示する。その提示は、「マルクスその可能性の中心」と「トランスクリティーク」という二つの本を通じてなされた。まず前者においては、マルクスをプルードン主義者に仕立て直す試みがなされた。マルクスが「哲学の貧困」の中でプルードンを徹底的に批判・嘲笑したことは有名な歴史的事実だが、柄谷はそんな事実にかかわらず、マルクスをプルードン主義者として見直したのである。その最大の理由は、プルードンに見られる無政府主義的な傾向と、人間同士の自由な結びつきとしての共同組合を重視する発想を、マルクスも共有していたと柄谷が考えたからだ。柄谷は、プロレタリアートによる革命が資本主義を終わらせるという考えが気に入らず、資本主義は人間の自由な結びつきとしてのアソシエーションによって乗り越えるべきだと願っていたので、そのアソシエーション思想の先駆者としてプルードンを高く評価し、できればマルクスもプルードンの仲間に引き入れたかったものと思われる。

柄谷はまた、シュティルナーのような個人主義者もマルクスの先駆者に数えている。シュティルナーは、マルクスが「神聖家族」の中で徹底的に批判・嘲笑した人物だ。それをマルクスの先駆者として位置付けるのは、プルードンの場合と同様の配慮が働いたからだろう。柄谷はマルクスを、労働者階級による革命が資本主義を終わらせるという考えが気に入らず、資本主義に代わる新たな社会は自由な個人の結びつきであるアソシエーションによって実現されるべきだと願った。その願いが、自由な個人に執着するシュティルナーをマルクスに結びつけさせたのだろう。

「トランス・クリティーク」においては、マルクスがカント主義者として仕立てられる。カントは、人間の自由な意思によって道徳を基礎づけ、その道徳の要請という形で理想社会の実現を説いた。カントはだから、理想主義者として位置付けられ、その理想をマルクスも共有したという形でマルクスをカント主義者に仕立てたわけである。普通の読み方をすれば、マルクスはヘーゲル流の弁証法を駆使して、歴史の必然性を主張したということになるが、柄谷は、そうした必然性よりも、人間の自由な意思と、その自由な意思が目指すべき理想を説いたカント的な理想主義者としてマルクスを仕立てなおしたわけである。

以上のようなマルクスの読み直し作業を踏まえたかたちで、柄谷独自の社会理論の体系が展開される。かれの社会理論体系は「世界史の構造」において完成形で提示される。柄谷の社会理論は、社会システムの差異を交換過程によって説明するものである。これを柄谷はマルクス自身の言葉を根拠にして提示する。柄谷は、商品の価値が実現するのは交換過程であるという、マルクスも認めている至極当然なことを根拠にして、交換過程こそが社会システムを根底から規定しているとする見方を押し出す。マルクスは、生産過程で発生した剰余価値は交換過程で、つまり市場の自由競争を通じて実現すると言っている。その場合、剰余価値を生み出すのはあくまでも生産過程であり、交換過程はそれを価値として実現するにすぎない、というのがマルクスの本意である。ところが柄谷は、マルクス自身が、剰余価値を生み出すのは交換過程だと言っている、というふうに勝手な解釈をするのである。

ともあれ、その勝手な解釈によって、柄谷は、かれ独自の社会理論をマルクスの名によって展開するのである。マルクスは生産様式の違いに応じて社会システムの分類をしたのだったが、柄谷は交換様式の違いに応じて社会システムを分類する。柄谷によれば、システムの種類は四つである。原始的な互酬原理にもとづく交換様式A、支配・被支配関係にもとづく交換様式B、商品の自由な取引にもとづく資本主義的な交換様式C、そして交換様式Dである。交換様式Dは交換様式Aを高度な形で再現させたものと定義しているが、要するに原始的共同体の原理であるコミュニズムが高度な形で再現したものである。そのような新しいコミュニズムを柄谷は、アソシエーショニズムと呼んでいる。これはプルードンを通じて柄谷が身につけたものである。

以上の、交換によって社会システムを分類したうえで、その最高段階としての交換様式Dの具体的な内実を説明するというのが、柄谷のアソシエーション論の特徴である。その場合に柄谷がもっとも重視するのは、本来のアソシエーションが遊動的な人間関係によって成り立っているということだった。それゆえ、将来のアソシエーションも、そうした遊動的な人間関係を前提にしなければ成り立たないということになる。そこでその自由なアソシエーションの担い手を考えるうえで、古代に実在した遊動的な人々が参照軸に選ばれる。柄谷が特に重視しているのは、アテネの勃興に先立つイオニアの思想家たちである。ヘラクレイトスをはじめとしたイオニアの思想家たちは、都市と都市の合間に生きる遊動的な人々だった。その遊動的な生き方が、かれらに独特の自由の姿勢をもたらした。イオニアの思想家に比べれば、プラトンは権威主義的で反動的な思想家だった。そうしたイオニア哲学の評価は「哲学の起源」において詳細に展開されている。

この遊動民という思想が、柄谷をして柳田国男の高い評価に導いた。柳田は一時期山人の研究に没頭したが、その山人とは、柄谷によれば日本における遊動民の先駆者だった。かれらは自由で開かれた社会を形成しており、そうした意味では原始的コミュニズムの一例といってよかった。だから彼らの生き方を学べば、未来の新しいアソシエーショニズムへの重要なヒントがえられるはずだ。そのような期待を込めながら、柄谷は柳田を読み返すのである。その成果が「遊動論」である。

柄谷の社会理論は非常にユニークであるが、なかなか示唆に富むものを含んでいる。それが未来の社会変革にどれだけ有効なヒントになるかは、にわかには判断できないが、かれの社会分析には参考にすべき点が多々あるといってよい。問題はその社会理論を柄谷がマルクスの名において展開していることだ。マルクスを参照軸に使うのは柄谷の勝手であり、したがってマルクスを引用しながら自分の説を展開するのは、当然あってしかるべきことである。だがそれをマルクス自身が主張したことのように語るのは越権行為と言わねばならない。あくまでも自分の意見として語るべき筋合いのものである。にもかかわらず柄谷がマルクスの名義に拘ったわけは何か。

ところで小生は柄谷を順序良く読んだわけではない。もともと柄谷の存在をそんなに意識しておらず、最近になってぼちぼち読み始めたにすぎない。そんなわけだから、柄谷について、体系的に語る用意に欠けている。ここでは折々に読んだ柄谷の本への評というかたちで、小生の柄谷論を披露したいと思う。基本的には、読んだ順序に本の評を披露しようと思うので、評相互の間に多少の行き違いがあるのは御寛恕願いたい。





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