哲学の起源:柄谷行人のギリシャ哲学論

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柄谷行人の著作「哲学の起源」は、ギリシャ哲学についての大胆な読み直しである。柄谷はその読み直しを、かれ独自の社会理論・歴史認識にもとづいておこなうのであるが、それについては先行する著作「世界史の構造」の中で詳細に触れたからといって、ここではほんのさわりの部分を付録という形で言及しているだけである。それを一言でいえば、人間社会の歴史をマルクスのように生産様式から見るのではなく、交換様式から見るということになるが、小論ではこれ以上立ち入ることはしない。

ギリシャ哲学についての素朴な見方は、イオニアの自然哲学をソクラテスが否定して、自然ではなく人間を中心に哲学するようになった、というようなものだ。そのソクラテスをプラトンが受け継ぎ、壮大なイデアの体系を作りあげたということになっている。柄谷はこういう見方を根本的に否定する。イオニア哲学こそが哲学の理想的なあり方なのであり、それをソクラテスも受け継いでいた。ところがプラトンは、ソクラテスの意見という形で自分自身の考えを披露しながら、イオニア哲学の精神を全面的に否定した。プラトンこそが、イオニア哲学の真の否定者だった。それゆえギリシャ哲学は、理想からの堕落の歴史としてとらえるべきだ、というのが柄谷の立場である。理想からの堕落態というのは、マルクスの疎外論を思わせる。もっとも柄谷はマルクスに触れることはあっても、その疎外論に触れることはないのだが。

柄谷は、ギリシャ哲学を正しく理解するためのカギは、「イソノミア」という言葉だと言う。この言葉は、ハンナ・アーレントが使ったもので、もっぱら政治的な意味に使われていた。それは、「市民が支配者と被支配者に分裂せず、無支配関係のもとに集団生活を送っているような政治組織の一形態を意味していた。この無支配という観念はイソノミアという言葉によって表現された」。これに対してデモクラシーは多数派の支配を意味しており、あくまでも支配・被支配関係の一形態である。

つまり柄谷は、イオニア哲学は無支配関係としてのイソノミアを理想とする思想のことだというわけである。その無支配の関係をイオニア哲学は自然の認識にも適用した。プラトン以降のギリシャ哲学は、目的論的な性格を強め、目的の階層に応じたヒエラルキー的な関係を持ち込んだのだが、イオニア哲学には、自然そのものに目的性を認めず、しかがって自然をそのあるがままの姿で認識しようとする姿勢があった。つまりイオニア哲学は、自然認識と社会認識を通じて、イソノミアという無支配を理想とする考えを共有していたというのである。

イオニアの哲学がイソノミアの思想に立脚したのには、イオニア諸都市が享受していた独特の条件があったと柄谷は言う。イオニア諸都市は、ギリシャからやってきた植民者たちによって作られた。これら植民者は、出身都市のしがらみを引きずっておらず、諸個人が対等の立場で一種の社会契約を取り結んだ。その契約は成員の完全な平等を前提としていた。かれらは平等な立場で、ポリスの運営にたずさわった。それが気に入らねば、出ていけばよかったのである。それに対して彼らの出身都市はアテネをはじめとして、部族共同体の連合体としての性格が強く、したがって共同体による個人の制約が強く働いた。また諸個人の関係も支配・被支配関係という形をとった。そういう世界では、完全な平等を前提とする活動とか思想は成り立たない。ところがイオニアの諸都市ではそういう関係が成立していた。それがイソノミアを可能にしたのである。

ところが、時代が下るにしたがって、イソノミアが成り立たなくなってきた。リディアやペルシャといった強国の影響が押し寄せてきて、専制的な支配・被支配の関係が持ち込まれ、イソノミアの絶対条件である完全な平等が成り立たなくなったからである。じつは、タレス以後のイオニア哲学がさかんになるのは、イオニアの諸都市がペルシャに併合され、イソノミアが失われてからであるという。失われたイソノミアをなつかしく思う気持ちが強くなって、その気持ちがイソノミアの復活への希求を生み、その希求がイソノミアを前提とするイオニア哲学の復興をうながした、というのである。

イオニア哲学の根本的な特徴は、自然の説明に自然外的な要因を持ち込まないことである。プラトンのイデアとか、アリストテレスの目的因とかいったものは、自然を説明するための外在的な要因であるが、イオニアの自然哲学は、そういった外在的な要因を徹底的に拒絶する。自然をして自然そのものを語らせる。自然は外在的な要因によって動かされているのではなく、それ自体ありのままというのに過ぎない。それを内在的という言葉で説明することができるように思われるが、内在的という言葉は外在的という言葉とセットである。イオニアの自然哲学には、外在的という概念はないわけだから、内在的という言葉を使ういわれはないことになる。そういう言葉のアヤを抜きにして、文字通り自ずから然らしむるもの、それが自然の本質なのである。

こう言うと、イオニア哲学は、唯物論のように聞こえるが、じっさい唯物論なのである。もっとも唯物論とは観念論とセットになった言葉であり、したがって近代的な思考の産物というべきである。そういう意味での唯物論という言葉は、イオニア自然哲学の知るところではなかった。自然は文字通り自然だったのである。人間の社会もまた、自然と異なったものではない。自然と人間を対立させて考えるのは、プラトン以降のことであって、イオニアの哲学者たちは、人間もまた自然の一部と考えていた。だから自然の原理と人間社会の原理とが通底しあっていることは不思議ではない。すべてはイソノミアの原理にしたがって動いており、また動くべきなのだ。ところが実際のイオニアには、イソノミアの原理に反するような事態が起きている。人間社会の間に分断が生じ、支配・被支配の関係が持ち込まれているのである。そういう事態に直面して、もう一度イソノミアの原理を復活させようとしたのが、タレス以後のイオニアの哲学者だった、と柄谷は言うのである。

このように柄谷は、イソノミアという概念を拠り所にして、ギリシャ哲学の歴史的な流れを大胆に読み直した。それはじつにユニークな試みといってよい。従来の哲学史の常識では、プラトンによって哲学の基礎が築かれたとされていた。イオニアの自然哲学は、原始的で素朴な思想であり、あくまでも自然の解釈の範囲にとどまり、人間社会のことは対象に含めていなかった。それをソクラテスが、人間中心のものに転換させ、そのソクラテスの思想をプラトンが受け継いで、西洋哲学の原点ともいえるものを確立した、というのが大方の見方だった。柄谷はそれを全面的に転換した。柄谷によれば、イオニア哲学は、自然と人間を通じてトータルに世界をとらえる見方であって、しかもその見方は、人間同士の絶対的な平等を前提としていた。その意味で、人類にとって理想的な出発点となった思想であった。プラトンはそれを否定して、哲学を正反対のものに転換した。それは哲学の堕落というべきものであった。われわれはその堕落を清算して、哲学をその本来の姿に戻さねばならない。本来の姿とは、人間の絶体平等を前提とするようなイソノミア的な思想のことである。こう言うことで柄谷は、全く新しい哲学の構築をかれなりに目指したものといえる。

柄谷の議論には、イソノミアという耳慣れない言葉を持ちだしてきたり、ある意味言葉遊びの要素が認められないでもないが、ギリシャ哲学を、新たな光の下で読み直そうとする意欲を感じさせる。それはそれで、野心的な態度だと受け取るべきかもしれない。





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