ひき逃げ:成瀬巳喜男の世界

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成瀬巳喜男最晩年1966年の映画「ひき逃げ」は、小さな息子をひき逃げで殺された女が、殺した相手に復讐するという内容の作品。その相手は浮気をしている中年女で、男を乗せて車を運転している最中に小さな子どもをひいてしまう。男と一緒にいるところを家族に知られたくなかったので、女はそのまま逃走した。挙句は、亭主に相談して、自分の罪を事件とは全く関係のないお抱え運転手になすりつける。そんな女に対して母親が、復讐を目的にさまざまな行動をとるといった内容だ。

子どもを殺された母親を高峰秀子が演じている。また子どもをひいた女を司洋子が演じる。この二人をめぐってさまざまな人間関係が描かれるが、中核的な部分は、高峰秀子の復讐への執念である。そうした復讐劇という要素とか、子を殺された母親の怒りといった要素はありふれたものだが、この映画の中には、そのほかの要素も含まれていて、いろいろ考えさせられるところもある。たとえば、警察の捜査のずさんさである。警察は、事件の犯人だといって自首してきた男の言い分を丸のみして、ろくろく捜査しないで落着させてしまう。事件を目撃していた老婆の証言も、顧みられることがない。要するにカンと自白に頼った古臭い捜査手法なのだ。

また、裁判の様子も、いまの感覚からはかなり異常だ。犯人は自首したことを情状酌量されたのか、単なる罰金で済んだうえに、その執行まで猶予される。これでは殺されたほうが浮かばれない。しかもその罰金というのがたったの三万円である。貧乏人の命はそんなもんだと思わせるような判決だ。

こういう具合に成瀬は、ふとしたところで日本社会のシステムを批判してみせる。成瀬は、金にまつわる話を描くのが好きだったが、この映画の中でも、高峰の弟が相手側弁護士との間で示談をするシーンで、賠償金をめぐるやり取りが映し出される。そのやりとりを見ていると、人間の命も金で買えるといった雰囲気が伝わってくる。金で買えるものには、高価なものもあれば安いものもある。貧乏人の子供の命などは、安い部類だ。結局高峰ははした金で泣き寝入りさせられる。だが恨みがなくなるわけではない。警察も裁判所も相手の味方になっているのなら、自分の手で相手をこらしめてやる。そう決意した高峰は、単身相手の家に乗り込んで、復讐の機会をうかがうのだ。

成瀬の映画としては、ドライな印象が強い作品だ。時たま高峰が感情を爆発させることもあるが、彼女は復讐を決意しており、その復讐のためには理性的に振る舞わねばならない。この映画の中の高峰秀子は、めずらしく理性的な女を演じているのである。

この頃の世相は車社会の様相を呈しており、人間より車が優先される社会だった。人間は道路を歩くにもたえず車に注意しなければならいし、場合によっては車にはねられそうになったりする。たとえ人をはねてもわずかの罰金ですむとあれば、運転手が歩行者の安全に鈍感になるのは無理はない。そう感じさせながら、高峰が通学中の学童たちを車から守る様子を映しながら映画は終わるのである。






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