華厳経を読むその五:菩薩の十行

| コメント(0)
第四会「夜摩天宮会」は、舞台を夜摩天に移す。夜摩天は、忉利天のずっと上空にある。そこに仏が移り、獅子座に結跏趺坐すると、夜摩天王のほか大勢の菩薩たちが周りを取り囲んで礼拝する。菩薩たちが仏をたたえる言葉の中には、華厳経の独特の世界観も含まれている。中でも力成就林菩薩が述べる唯心論思想は、華厳経の核心的世界観といえるものである。それは、「心と仏と衆生とは、互いに無差別であり、たがいに尽きることがない。一切はことごとく心とともにうごく」という主張であり、「三界唯心」と呼ばれる思想である。その詳細については、第六会「他化自在天宮会」第二十二章「十地品」において説かれる。それに先立って、この「 夜摩天宮会」では、菩薩の十行と十の無尽蔵について説かれる。

菩薩の十行とは、菩薩がなすべきおこない、あるいは振舞いのことをいう。先に「菩薩の十住」について振れたが、「十住」とは菩薩がめざすべき境地であった。それに対し「十行」とは、菩薩がつねに心掛けるべき振舞いをいう。十という数字にこだわるのは華厳経の特徴であって、からなずしも具体的な数字ではなく、「多くの」といった意味合いを持たされている。

菩薩の十行を解くのは功徳林菩薩である。功徳林菩薩は、毘盧遮那仏の本願力と威神力に助けられて、甚深の法を説くのである。その際に、「菩薩が十行をおこすのは、一切の智慧をはぐくみ、のばすためであり、すべてのさわりをはなれて、なにものにも碍えられない世界にはいるためであり、真実に生きる無数の方便を得るためであり、すべての真実を聞き入れて、身に行うためである」と言われる。

では、菩薩の十行とはなにか。歓喜行、繞益行、無恚恨行、無尽行、離痴乱行、善現行、無着行、尊重行、善法行、真実行の十の行をいう。

第一の歓喜行は、慈悲を実践することである。「ボサツは無上の大慈悲心をおこして、困っているものをつねに来らしめ、ますますこれをよろこばせる」。つまり歓喜とは、困っているものをたすけ、それによってその人を歓喜させることを意味する。

第二の 繞益行とは、戒律を保つことである。「諸々の魔王、天女、およびすべての衆生をして、無上の戒律をたてさせ、また教えて、不退転の境地を得させ、究極のさとりを完成させる」ことである。

第三の 無恚恨行とは、つねに忍耐を実践することである。「むさぼり、いかり、愚痴の心、高慢心、嫉妬心を離れさせ、大きな智慧の中にこころやすらぐ」ことである。そのために、「苦悩や危害に遭遇しても、よくそれを忍ぶべきである。すなわち衆生をあわれみ、衆生を安んぜしめ、衆生をおさめとり、衆生をして不退転の境地を得させ、ついには無上のさとりを完成せしめようと思い、仏の行じたまうところの法」を自分もまた行ずべきである。

第四の無尽行とは、努力精進を怠らないことである。「五欲のために、心みだれず、いかり、愚痴、高慢、嫉妬、恨みのために悩む」ことなく、衆生に先立って努力精進することである。努力精進の内容は、無上のさとりを得るために必要な行為である。すなわち一切衆生にかわって、一切の苦しみを耐え忍ぶことである。

第五の 離痴乱行とは、心をみだすことがらと無縁なことである。「他人の悪口を聞いても、また、ほめる言葉を聞いても心の乱れることがない。禅定も乱れず、ボサツ行も乱れず、ボダイ心を訓練することも乱れず、念仏三昧も乱れず、衆生を教えみちびく智慧も乱れない」ことである。

第六の 善現行とは、「すべてのものは実体がないという智慧に達し」、その智慧を実践していることである。「すべての世界は、ことごとく寂滅であるとさとり、一切諸仏の甚深の妙法をさとり、仏法と世界法とは同一であって、区別がないとさとり」、そのさとりに基づいて振る舞うことである。

第七の無着行とは、執着のないことである。「一切の世界は、まぼろしのごとく、諸仏の説法は、いなづまのごとく、ボサツのおこないは、ゆめのごとく、きくところの仏法はひびきのごとくである」とさとり、一切のことがらに執着しないことである。

第八の尊重行とは、菩薩の大願を捨てず、ひたすら菩薩の道をおさめることである。そうすることで、「すべての衆生をして、永久に悪道をはなれしめ、衆生を教えみちびいて、三世諸仏のなかに安住せしめる」ことである。

第九の 善法行とは、「一切衆生のために、清らかな法の池となり、正法をまもって、仏種をたやさない」ことである。それによって、おのずから清浄となり、すべての衆生を教え導くことができる。その菩薩は十種の身体を持つ。第一に無量無辺の法界にはいる身、第二に未来身、第三に不生身、第四に不滅身、第五に真実身、第六に無知を離れている身、第七に過去も未来もない身、第八に不壊の身、第九に一相の身、第十に無相の身である。

第十の真実行とは、「真理の言葉を成就し、その言葉どおりに行じ、行ずるとおりに説法する」ことである。そのことによって衆生を救おうとし、衆生を救わないうちは、みずからもさとりを完成できないと知ることである。衆生を救うについては、「衆生の種々の思い、種々の欲望、種々の業法を知り、衆生の求めに応じて、その身をあらわし、衆生の悩みをしずめる」のである。

以上、「十行品」では、仏のなすべき振舞いについて説かれた。功徳林菩薩がそれを説き終わったときに、十方無数の仏国土から大勢の菩薩たちが集まってきて、功徳林菩薩をたたえたのであった。





コメントする

アーカイブ