アルフォンス・ミュシャの世界:作品の鑑賞と解説

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アルフォンス・ミュシャ(Alfons Maria Mucha 1860-1939)といえば、19世紀末にヨーロッパを席巻した芸術運動「アール・ヌーヴォー」の代表選手としての位置づけである。アール・ヌーヴォーの特徴は、過度の装飾性とマンガチックな人工美にあるといえるが、ミュシャはそれらを最も明確に体現していた。同時代の同じ傾向の画家としては、クリムトがあげられるが、ミュシャはポスターなどの商業的な分野に深くかかわったこともあって、以上の特徴が誰よりも強く表れている。

アルフォンス・ミュシャにはもうひとつの顔がある。民族主義者としての顔である。チェコ人のミュシャはスラヴ文化に強烈な誇りを持っていて、その誇りをイメージとして表現することに人生の後半部をかけた。

アール・ヌーヴォーの特徴と、民族芸術の特徴とは、ほとんどつながりがない。全く別の芸術といってよい。だからミュシャの中には二人の芸術家が共存していたといえる。共存というより継起といったほうがよい。始めはアール・ヌーヴォーのチャンピオンとして、ついでスラヴ的な民族芸術の旗手としてである。この二つの面のうち、より目立つのはアール・ヌーヴォーの方である。ミュシャといえばアール・ヌーヴォー、アール・ヌーヴォーといえばミュシャというくらい、切り離せない。

もっとも、アール・ヌーヴォーの旗手として活躍した期間は意外と短い。かれの出世作であるサラ・ベルナールのポスター第一号が発表されたのは1894年のことで、そのポスター中心の制作活動は1905年ころまでには終わっているから、実質十年ほどの期間を、アール・ヌーヴォーの旗手として活躍したに過ぎない。

1910年には、故郷のチェコに帰り、そこで「スラヴ叙事詩」シリーズを中心に、民族主義的な雰囲気を感じさせる作品の制作に従事した。そちらのほうは、アール・ヌーヴォーほどの反響を呼ばなかったが、ミュシャとしては、それこそ人生の総決算のような位置づけだった。

アルフォンス・ミュシャは、1860年にチェコのモラヴィア地方に生まれ、ウィーンやミュンヘンで画家の修行をした。有名な画家に師事したという形跡はない。そのことで、自分流儀の独特の画風を開拓したのだろう。27歳のころパリに出てきて、挿絵などを描いていた。かれの絵のマンガチックな雰囲気は、挿絵の延長にあるのかもしれない。

画家として転機となったのは、当時有名だった女優サラ・ベルナールのために一連のポスターを制作したことだ。第一号は1894年、最後のポスターは1899年に出ている。この一連のポスターによって、ミュシャはアール・ヌーヴォーの旗手としての地位を勝ち取った。サラ・ベルナールとは親密な付き合いをし、ポスター制作のほか、舞台演出の協力もしている。

ポスターのほか、装飾パネルと小型絵本でも人気を博した。それらは大量生産・大量消費の対象となり、当時勃興しつつあった民衆文化の重要な担い手となった。また、ミュシャにそれなりの収入をもたらしてもくれた。

アルフォンス・ミュシャは、1904年をかわきりに、たびたびアメリカを訪問し、絵の売り込みとか制作に従事する一方、抱いていたプロジェクトのためのパトロンを探した。そのプロジェクトとは、数年をかけてスラヴ叙事詩のシリーズを完成することだった。大金持ちのチャールズ・クレインがパトロンになってくれた。そこでミュシャは、1910年に故郷に戻り、そこでスラヴ叙事詩シリーズの制作にとりかかる。このシリーズは、1911年に始まり、1928年に完成する。それをミュシャは、チェコの政府に寄贈したのだったが、作品があまりにも巨大なこともあって、常設館で展示されることはなかった。一般の目には、隠れたマスターピースになったのである。常設館での展示が実現したのは、1963年のことである。

アルフォンス・ミュシャは、いまでは、基本的には「アール・ヌーヴォー」の代表的画家という位置づけである。アール・ヌーヴォーの美術史上の位置づけは、あまり高くはなかったが、近年は、ポップアートの先駆けとして見直されてもいる。

そんなアルフォンス・ミュシャの代表的な作品を取り上げ、鑑賞しながら適宜解説・批評を加えたいと思う。(上はミュシャの肖像写真)





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