フランスの状態:ハイネの同時代観察

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1831年5月、ハイネはパリに移住した。それ以降1854年に死ぬまで、時折ドイツに戻ることはあっても、パリに住み続けた。だから、事実上の移民といってよかったが、ハイネ自身にはそんな大袈裟な意識はなく、パリの空気が気に入って、住み続けているうちに、いつの間にか死を迎えたということだろう。ハイネは60歳前に死んでいるので、当時の感覚でも、早死にといえるのではないか。

パリに移住した翌年(1832年)の1月から9月にかけて、「アウグスブルク一般新聞」に、「フランスの状態」と題する時事エッセーを連載する。その頃のパリは、七月革命で主導権を握ったブルジョワジーが元気で、それなりの活況を呈していたが、社会の深層では、体制への不満が鬱積していた。その不満が爆発したのが「六月暴動」で、これについてハイネは当然取り上げている。また、春から夏にかけてコレラが大流行した。そのことへの言及も当然ある。そんなわけでこの時事的エッセーは、当時のフランス社会が抱えていた矛盾に切り込む勢いを見せている。しかし、ヘルゴラントで七月革命の報に接して歓喜したときのような興奮は感じられない。

連載終了後、一巻にまとめるにあたり、序文を書いている。この序文は、連載した本文とは直接の関係はなく、もっぱら同年6月28日のドイツ連邦議会の決議を批判している。ドイツ連邦議会というのは、ナポレオン戦争後に成立したウィーン体制の柱の一つであり、全ドイツ規模の連邦組織であった。メッテルニヒのオーストリアが中心となり、ドイツをナポレオンの撒いた革命精神から防衛することを目的としていた。そのドイツ連邦議会が1832年6月に決議したものとは、自由な出版の抑圧であった。それに言論の自由の危機を感じたハイネが、猛烈な批判を加えたというわけである。

ハイネはこの決議を、ドイツ人の自由に対する挑戦であり、またドイツ人を愚昧化することを狙うものだと批判する。ハイネはいう、「ある国民がその君主からこれほど残酷に愚弄されたことは、いまだかつて例がない。その連邦議会の命令は、われわれがどんなことにもあまんじて従うことを前提にしているだけではなく、そのうえさらに、そもそもわれわれはこれによって全然損害を受けたり不当な目にあうことはないのだ、とわれわれに信じこませようとしている・・・こういう手合いがそんな手口で全国民を、しかも火薬や印刷術や『純粋理性批判』を発明した国民を、だませるものと思いあがっている。きみたちはわれわれをきみたち自身よりももっとばかだと思い、われわれをたぶらかせるとうぬぼれている。この不当な侮辱、こいつはひどい侮辱だ」(市村仁訳)

ハイネは、これはドイツ国民の奴隷状態を確認したものにすぎないから、そんなものは完全に無効だと反撃する。人民の奴隷状態を前提にしたいかなる文書も、法的な効力を持たないという理由に基いてである。ともあれ、フランスの状態をテーマにした著作物の序文として、ドイツの状態を強く批判する文章をさしはさんだというのは、祖国ドイツの行方に関するハイネの強い憂慮を反映しているのであろう。

本文では、フランスの状態のさまざまな側面について解剖学的な言説が展開されている。出だしのところでは、七月革命後のフランス社会の空気について触れている。七月革命はブルジョワジーを権力の座につかせたが、革命の実際の立役者であった下層民はあいかわらずひどい状態にとり残され、外部からのちょっとした圧力で爆発しかねない勢いである。じっさい、前年(1831年)の10月には、リヨンで下層民の蜂起がおこっている。パリでも、いつそのような蜂起が生きてもおかしくない。ハイネはそのように予言するのだが、その予言はその年の六月に現実になった。有名なパリ六月暴動である。

コレラがパリを襲ったことは三月二十九日に発表されていたが、パリっ子たちは陽気に騒いでいた。しかしコレラが街中に蔓延するとパニックに陥った。コレラが感染症であることはわかっており、官憲は街路の清潔を徹底し、屑のたぐいを除去したのだったが、それに反発した屑屋たちが反乱を起こした。一方、迷信深い連中は、誰かが悪意をもって毒をまき散らしているのだと思い込み、街中で怪しげな人間を見ると、よってたかって袋叩きにした。「ポケットのなかに、なにかあやしいものでも見つかったら、ことだ! そのとき大衆は野獣のように、気違いのように、彼らのうえに襲いかかった・・・サンドニ街でわたしは、『街頭にぶら下げろ』という古い有名な叫びを聞いた。毒殺犯を絞め殺すのだ、と二・三の人が怒りながらわたしに話した・・・着物ばかりでなく髪や陰部や唇や鼻までもがれていた。あらくれ男が死骸の足に縄をくくりつけ、それで往来を引きずっていった。『コレラはこいつだ!』と叫びながら」

大衆のこうしたパニック騒ぎは、歴史上珍しいことではない。日本でも、関東大震災のパニックの中で、大勢の朝鮮人が興奮した日本人によって虐殺されたものだ。

六月暴動についてハイネは、かなり抑制された調子で報告している。というのもハイネは、この暴動を、庶民の怒りが爆発したものであり、その怒りには明確な理由があり、したがって必然的に暴動に発展すべきものだったとは見ずに、単なる偶発事件と見ているのである。この暴動は、フランス革命の権化のように思われていたラマルクの葬儀に付随して起ったのだったが、それはあらかじめ組織されたものではなく、偶発的なものだったとハイネは見ているのである。

ハイネはいう、「不幸なラマルクよ、おまえの葬式は、なんというたくさんの血を犠牲にしたことであろう! 彼らは、悲哀のはかないきらびやかさを試合によって高めるために、むりやり駆り出され、あるいは襲われて、むごたらしく闘いあった戦士たちではなかった。もっとも高邁な夢のために、みずからの血をささげた、はちきれんばかりに感激した青年たちだった」

その青年たちに向かって、ハイネは、「わたしは少年のように泣いた」というのであるが、その涙は、ワニの涙のように、情がこもっていないように見える。というものハイネは、自分自身を根っからの共和主義者ではなく、王権主義者と言っているからだ。王権主義者なら、血気盛んな若者の暴走は、ワニの涙を流しながら受け止めることができるであろう。広範な民衆が秩序の破壊に向かって立ち上がるのは、見たくない眺めであろう。じっさいハイネは、民衆蜂起に対して次第に冷淡になっていくのである。その理由は色々指摘できよう。ハイネがパリのブルジョワ社会に魅せられたというのも、その一つである。

なお、この六月暴動については、ヴィクトル・ユーゴーが「レ・ミゼラブル」の中で大きく取り上げた。ユーゴーはこの暴動を、庶民の怒りが爆発したものととらえ、その庶民の先頭に若者たちが立ったというふうに描いている。ミュージカル映画「レ・ミゼラブル」も、この暴動のシーンがクライマックスになっている。若者たちは、バリケードに身を寄せながら、押し寄せてくる官憲の銃弾に倒れていくのだ。ユーゴーはフランス人として、祖国の出来事に深い同情をいだいている。それに対してハイネの視線には、行きずりの外国人の目を感じさせるものがある。





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