族長の秋:ガルシア=マルケスを読む

| コメント(0)
ラテン・アメリカ諸国の歴史は、数多くの独裁政権によって彩られている。もともとが、ヨーロッパからやってきた白人たちによって人為的に作られ、その白人たちの国家が全国民を統合するだけの力を持たなかったので、専制的な独裁政権ができるのは自然な流れだった。ひとくちに独裁政権といっても、色々なタイプがある。もっとも多いのは、軍事力を持った地方的な勢力が、互いに抗争を繰り返しながら政権交代するというものだろう。そういう軍閥のような勢力を、カウディージョという。ラテン・アメリカ文学には、こうしたカウディージョに焦点をあてて、ラテン・アメリカ的な独裁体制を強く批判した一連の作品群がある。ガルシア=マルケスの小説「族長の秋」もそうした作品の一つであり、アストゥリアスの「大統領閣下」と並んで、いわゆる独裁者文学の最高傑作とされている。

とにかく強烈なインパクトをもった作品である。まずその異様な語り方が読者の度肝を抜く。日本語版についていうと、原稿用紙90ないし100枚で一つの章をなし、それが七つばかり集まって全体を構成しているのだが、その一つの章が一つの段落からなっているのである。つまり読者は、一章を切れ目なく読むことになる。ということは、一呼吸おいて次の段落に進むためには、一章全体を読まねばならないのだ。しかも、その段落のなかのそれぞれの文が異常に長い。一応句読点はあるが、読点がやたらに多くて、句点がわずかしかない。普通なら句点を打つべきところでも、読点ですませている。つまり、小説の全体が、異常に息の長い文章によって語られているのである。

その語り方の具体的なありさまも、常軌を逸している。小説というのはふつう、語り手というものがいて、それが第三者としての客観的な視点から語るというのがオーソドックスなやり方である。この小説の場合にも、それに似た語り手がいて、一応第三者的な視点から語られているということになっているが、その語り手が突然かわったりして、語り手の語りの対象だったはずのものが、語り手の場所に侵入してきたり、また、全く異なっているとしか思えない別の語り手が介入してきたりする。ということは、この小説は、安定した語り手を想定していないということである。フォークナー以来、複数の語り手がそれぞれ勝手な視点から語るということは、文学の新しい伝統として定着してきたわけだが、その場合でも、語り手相互は互いに独立した位置づけを与えられているのが普通である。ところがこの小説の場合、複数の語り手が入り乱れながら、それぞれ自己主張している。小説の登場人物たちが、それぞれ勝手に自己を主張し、言いたい放題のことをいうことで、彼らの間に独特の交響的関係を醸し出すというのは、ドストエフスキー以来よくある語りの手口になっているが、語り手自体が複数の人格に分裂し、それぞれ勝手なことを語るというのは、この小説が現れるまでは、かつてなかったことである。

語り手は一応第三者的な立場から語るということになっているが、その語り方は、物語を語るというよりは、誰かに向かって、俺の話を聞いてくれという具合に、訴えかけるような語り方である。その語り手は、語りの言葉の端々からして、どうもこの小説の主人公である大統領閣下の知人らしい。少なくとも大統領に対して親愛の感情をいだいている。語り手は親愛の感情をこめて、大統領の生き方を賛美するように描いていくのだ。その大統領というのが、百年にもわたって独裁的な権力をふるい、したがって百数十年(あるいは232年)を生きたということになっているから、その大統領にたえず付きまとっていることになっている語り手も百年以上生きているのであろう。ラテン・アメリカに現れた大勢の独裁者には、数十年にわたって権力を保持したものもあったが、だいたいは短い政治生命に終わった。ましてや、百年もの間権力を保持したものはいない。そんなに長い間、専制的な権力を保ち続けるのはどだい無理なことだ。だいいち肉体的にも精神的にも能力が衰え、とても若い連中の挑戦を退けつづけることはできないだろう。じっさいこの小説の中の主人公大統領閣下も、晩年にはすっかり老いさらばえて耄碌し、大小便を垂れ流すありさまなのだ。それでも権力を保持し続けることができたのは、どういうわけか。民衆の側が積極的にそれを望んだからではないか。つまり権力というものは、支配するものが支配されるものに一方的に行使するだけではなりたたず、支配される側の積極的な受け入れがあってこそ、長続きするということを、この小説は、小説という分際をわきまえながら語っているのではないか。

訴えかけるような語り方をしていることから、大統領の姿は、説明的にではなく、情緒的に描かれている。その情緒は、基本的には親愛の感情に満ちたものだ。大統領個人は、あまり魅力のある人物ではなく、専制君主というイメージに相応したあらゆる悪徳を備えているといってよいが、それが語り手の目には、なかなか人間的に見えるのであろう。人間は複雑な生きもので、残酷な面と寛大な面、おそろしい面とやさしい面を兼ね備えている。そうした人間についての達観した見方が、語り手の、大統領閣下に対する寛容な語り口につながっているのではないか。なにしろ大統領の子供じみた残酷さは、時計に命令して時刻を自分の意のままに表示させたり、月の運航を自由に操ったりするところに見られる。一方で大統領は、大人になっても自立できない性格で、いつも母親のベンディシオン・アルバラードに頼るのだ。そのベンディシオン・アルバラードは、死ぬまで息子の面倒をみたのだった。

大統領自身はしかしなかなかの好色で、無数の妾をもち、その女たちの腹から5千人もの子どもが生まれたのであるが、大統領はただ自分の性欲のはけぐちとして女たちにおそいかかったのであって、愛しているわけではなかった。大統領がただひとり愛した女レティシア・ナサレーノは修道女あがりで肥満した醜女であったが、どういうわけか大統領を手玉に取り、大統領の権力をかさに着て、好き放題なことをやり、民衆の恨みをかったのだった。その恨みのためにレティシオ・ナサレーノは暗殺されるのだが、大統領は側近のホセ・イグナシオ・サエンス・デ・ラ・パッラに命じて、暗殺犯への復讐を願った。そこでホセ・イグナシオ・サエンス・デ・ラ・パッラは、人間のような目をした犬コッヘル卿を連れて、毎日何十人という人間の首をはね、それらを大統領に披露するのだが、どれもこれも暗殺犯とは関係のない首ばかりであった。そうこうしているうち、国民の大部分が身内に首をはねられたものがいるようになったことで、ホセ・イグナシオ・サエンス・デ・ラ・パッラは国民の怒りをかって殺されてしまったのだった。

そんなわけで大統領の晩年は、孤独の毎日だった。大統領は自分自身が暗殺されることを恐れて、官邸には最小限の人間しか近寄らせず、また寝るときには、一人で部屋に閉じこもり、三重にカギをかけ、三重に閂をかけ、三重につっかえ棒をしたのだった。大統領は、自分自身が国民に愛されていることを確信していたが、しかし、暗殺者の存在は気にしなければならなかった。なぜなら彼は大勢の人間を殺したために、自分に対して恨みをいだく人間の存在も否定できなかったからだ。





コメントする

アーカイブ