ルテツィア:ハイネのフランス時評

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1840年2月から43年6月にかけて、ハイネはドイツの新聞「アウグスブルガー・アルゲマイネ・ツァイトゥンク」にフランスについての時事評論を連載した。後にそれを一冊にまとめ「ルテツィア」と題した。ルテツィアとは古代ローマの言葉でパリを意味する。

連載を開始した1840年といえば、1830年の七月革命の結果成立したルイ・フィリップの王政の時代である。この王政は基本的にはブルジョワジーの利害を代表していた、とハイネは見ている。そのブルジョワジーの支配がさまざまな矛盾を生むようになり、フランス社会には次の革命に向けての動きが高まっている。その動きの推進力はプロレタリアートである。そのプロレタリアートの利害を共産主義者たちが代弁している、というのである。。

こういうと、マルクスとエンゲルスの共産党宣言を想起する。だから、ハイネのこの時事評論は、マルクスらの主張を先取りしたと言えるところがある。だが、ハイネの時事についての認識には多分に気分的なものがあり、厳密な科学的分析を踏まえたものとは言えない。

副題に「政治・芸術・庶民生活についての通信」とあるとおり、論題は多岐にわたっている。その中で政治のウェイトがもっとも高いのは、この時期にフランスの政治が極めて不安定化していたことを反映している。その不安定さは、やがて1848年に二月革命という形で爆発する。その爆発に向けて、社会の各層にさまざまな不穏な動きが出てきている、というのがハイネの基本的な見方である。

政治が不安定化しているのは、議会政治のせいだとハイネは言う。今のフランスの政治は、立憲主義的というより議会主義的である。議会を牛耳っているのはブルジョワジーだが、かれらは共和国より王政を望んでいる。なぜなら、共和国がブルジョワジーの独占的な権力を侵害する恐れをもっているからだ。ハイネ自身は共和主義者なので、それに敵対するブルジョワジーを許せないのだ。だからハイネは、共和国の担い手としてプロレタリアートに期待し、その政治的な表現としての共産主義に好意的なのである。つまりハイネは、プロレタリアートと共産主義とを、共和主義の担い手としてとらえていたわけである。

「国粋主義(王政派)の連中に対する憎悪から、わたしはほとんど共産主義者たちにほれこみかねないほどだ」(土井義信)とハイネは言うのだが、かれがかくいう共産主義者が誰を意味しているのか、かならずしも明らかでない。というのも、共産主義という言葉が有意味なものとして公然と語られるようになるのは、1848年にマルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を書いて以降のことであって、それ以前には、共産主義という言葉の定義さえはっきりしていなかったのである。

ハイネは、最後に付録として掲載した文章「共産主義、哲学および僧侶」の中で、ピエール・ルルーを高く評価しているが、ルルーの思想は今日の常識では共産主義ではなく、一種のアナーキズムと言うべきである。ハイネがそれを共産主義と見ていたことは、共産主義をかなり緩やかな概念として見ていたことを意味するのだろう。ともあれハイネは、共産主義をはじめ様々な思想が、フランスの現状にノーを突きつけ、革命を目指していると見ているのである。

ハイネは言う、「この古い社会は、もうとっくの昔から審判され、裁断されているのだ。それに正義の裁きがおこなわれるがいい! 無邪がほろび、利己主義が栄え、人間が人間にしぼられたこの古い世界、そんなものはたたき壊されるがいい!」。ハイネはフランスの現状に憤っているのだ。だが、それにかえてどのような社会を目指すのか、それについては明確には語っていない。かれの共産主義のイメージが曖昧なのは、新しい社会のあるべき姿についての理念的な考察が欠けていたからであろう。

ハイネがパリでマルクスと出会うのは1843年秋のことで、すでにこの連載を終えていた。かれがマルクスとどのような相互影響関係を築いたのはよくわからない。あるいは共産主義への理解が深まったかもしれないが、この連載の時点でかれがかぶれていた思想は、サンシモニズムである。サンシモンの思想は、人間の絶対的な平等を条件としながら、しかも能力主義を唱えるというもので、ヌエ的な変幻ぶりを感じさせるものだった。ルイ・フィリップまでサンシモン主義者に数えられる程であるから、すくなくとも今日的な意味での共産主義とは縁がないと言ってよい。ハイネが思想上強い影響をそのサンシモニズムから受けていたということは、かれの時代的な制約を物語るものだろう。

同時代のフランスへのハイネの批判は、その政治的反動性に向けられる。その反動性は、ブルジョワジーがプロレタリアートの台頭を恐れるあまりに王政にしがみつくことを意味する。ハイネは言うのだ、「奇妙な国だ! そこでは破壊的な欲望が瀰漫しているのにかかわらず、それにかわって現れるかもしねぬより悪いことを一般に恐れるがために、多くのものが維持されている!」と。

ハイネはさらに、他の日に掲載した文章の中で言う。共産主義という「この恐怖のおかげで、ルイ・フィリップはそのもっとも忠誠な支持者を、彼のもっとも熱心な支持者を持つことができるのである。この支柱の震えが激しければ激しいほど、王位の動揺はそれだけ少ない」。ここでハイネが共産主義といっているのは、おそらくサンシモン主義をはじめとした社会主義的な傾向の思想をさすのだと思うのだが、イギリスより産業化が遅れていたフランスにおいては、プロレタリアートの数も少なかったし、かれらの利害を代表する(共産主義などの)思想も未熟であった。だから、そうした未熟な思想に依拠したハイネの主張は、言葉の響きとしては勇ましいとしても、どれほど有効な影響力をもてたかについては、かなり疑問とせずにはおれない。





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