ミドルマン:サタジット・レイの映画

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サタジットレイの1976年の映画「ミドルマン」は、いわゆる「カルカッタ三部作」の三作目。一作目の「対抗者」と同じく、職を求めて必死になるインドの若者を描いている。「対抗者」の主人公は、経済的な理由から大学の医学部を中退し、できたら医学に関係のある職に就きたいと願うが、それがかなわず都落ちして、田舎のさえない職場で我慢する様子を追っていた。それに対して、この映画の中の主人公の若者は、大学は無事卒業できたにかかわらず、意に沿う就職ができない。その挙句に自分でビジネスを立ち上げるというような内容である。

主人公の若者は、あまり成績がよくないので、卒業試験に通るかどうか不安だったが、なぜだか、合格した。合格率は受験者の40パーセントで、おそらく双子らしい弟は日頃成績が良かったにかかわらず落第した。父親は、それを不満に思うのだ如何ともなしがたい。インドの大学はいい加減であり、実際の成績と学業の評価とは必ずしも結び付いていないようなのだ。

これは以後の筋書きの展開とはあまり関係がないエピソードだ。主人公の若者は、家族の期待もあって、まともな会社への就職活動に専念するのだが、半年以上たっても、なかなか先が見えない。あせっている時に、かつて一緒にサッカーの試合の応援をしたことがある中年男に再会し、その男から、自分でビジネスを始めたらどうかとアドバイスされる。ビジネスというのは、さまざまな商品の売買を仲介するというものだ。安く仕入れて高く売り、その差額をもうけようというわけである。そういうブローカーのような仕事は、インド社会では軽蔑されているらしく、若者は迷う。父親に相談すると、うちはバラモンの家柄で、これまでビジネスにかかわったものは祖先にはいないと言って嫌な顔をするのだったが、それでもお前がやりたいのなら反対はしないと言う。

そこで若者は気分が吹っ切れる。生きていくためには、バラモンの誇りなどにこだわっておれない。それでもやはり、ビジネスは恥ずかしいという意識がある。そこで仲間のものから、ビジネスマンがいやならミドルマンと称したらよいと言われる。ミドルマンとは聞きなれない言葉だが、要するに、売り手と買い手の間に立つ人間という意味だろう。

ビジネスには、色々なことが付きものである。インドのようなコネ社会では、初対面の人と仲良くするには、つけとどけをしたり、場合によっては賄賂をおくったりもしなければならない。中には、賄賂として女を要求するのもいる。

じっさい、この映画の中の若者も、大事な得意先になりそうな男から、女を抱かせることを要求される。ウブで女を知らない若者は、知り合いにどうしたものかと相談する。その知り合いは若者を気にいっていて、おれが何とかしてやろうと請け負ってくれる。与えた恩義には、後で別な形で返してもらいというのが、インド人の流儀らしいのだ。

その知人の世話で、若者は上玉の女を手に入れることができた。その女というのが、かつての恋人で、自分のふがいなさを見限って他の男と結婚した女なのだった。若者はだが、過去のいきさつを忘れ、女を客に抱かせる決意をする。かくて若者が、女をホテルに導き、客に抱かせようとするところで映画は終わるのである。

色々考えさせる映画である。こういう映画を見ると、インド社会における人間関係の本音の部分が見えてくるような気がする。






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