十地経を読むその九:第八まったく不動なる菩薩の地

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菩薩の十地は第八地にいたって従来とはまったく異なった境地に入る。従来の境地は、菩薩の個人としての修行に重きを置いていた。大乗の菩薩であるから、その修行は自己のみならず衆生の救済をも目的とするものであるが、しかし自己自身修行の身であることにはかわりなく、したがって十全なさとりの境地にはまだ達しておらず、ましてや衆生をさとりに導くことはできない。ところが、第八地にある菩薩は、自己自身のさとりを成就すると同時に、衆生をしてさとりを得させる力を持つにいたるのである。

その点では仏に限りなく近づいているといえる。しかし、仏の目から見れば、まだまだ菩薩にとどまっている。菩薩とは、その語義からして、成仏したものではなく、自己及び衆生のためにさとりを成就すべく修行するもののことを意味する。その修行は、仏になるまでは続けられるのである。かの弥勒菩薩でさえ、仏としてあらわれるべき時期までは、兜率天にとどまって菩薩の修行を続けている。このように成仏が約束されているものさえ、完全に仏になるまでは、菩薩として修行する身なのである。

ともあれ、第八地に達した菩薩は、「あらゆる修行実践の努力はあとかたもなくなり、あらゆる存在が融通無礙にはたらいている如性をさとる」。つまり、これまでの修行はすでに成就したので、それにもはや付け加えるものはなく、あらゆる存在について、その真相であるところの融通無碍なさまをさとるのである。ここでは、存在の融通無碍なさまとは、世界が分節された相において現れるのではなく、互いに区別されず、相即相入の相においてあらわれるということを意味する。分節は概念作用のはたらきであるが、そうした概念作用を超脱したところに融通無碍な世界のあり方が成立する。それをお経は次のように説いている。

「かの菩薩にとって、主観・客観の概念作用(二行)も、個的実体の概念作用(相行)も、もはや、いかなるものも、いかなるしかたでも、あらわれない・・・かの菩薩がこの『まったく不動なる』菩薩の地にあるならば、いかなる心・意・識の概念作用も、実際におこることがない。いかなる仏の概念作用も、菩提の概念作用も、菩薩の概念作用も、菩薩行の概念作用も、涅槃の概念作用も、教えを聞いてさとる仏弟子の概念作用も、ひとりでさとる仏弟子の概念作用も、実際におこることがない。まして世間的な諸存在の概念作用が実際におこることがないことは、いうまでもない」

つまり、さとりの状態では、仏の存在や涅槃をふくめて、一切が概念作用をはなれたところに真理があるというのである。概念作用では捉えられないものを捉えるのは直感的なはたらきということになるのだろう。お経は直感という言葉は使っておらず、存在をその如相において捉えるという言い方をしているが、それが概念作用でないならば、直感以外にはありえない。

この第八地にある菩薩は、かれが生きている現世においてさとりを成就するばかりではない。無量無辺の仏国土にわたって顕現し、それぞれにおいてさとりを成就する。かれはもはや、この現世に生きているだけではない、三千大千世界といわれるあらゆる仏国土を自由自在にめぐり、そこで自己を顕現する。それも同時にさまざまな世界に顕現する。それをお経は次のように説いている。

「いままでのところでは、たった一つの身体において実現される菩薩行を実現していたのであるが、しかしこの地にまでのぼりきった菩薩は、無量無辺に身体をわけて菩薩行を実現する力を体得している。そして、無量無辺の音声を実現し、無量無辺の知を実現し、無量無辺のところに生まれる生を実現し、無量無辺の仏国土を清浄にし、無量無辺の衆生を菩薩道に成熟させ、無量無辺の諸仏に礼拝供養して恭敬し、無量無辺の諸仏の不思議なる存在を自覚し、無量無辺の神通力を実現し、無量無辺にわかれる説法会を実現し、無量無辺に働く身体と言葉と意思のはたらきを実現して、あるとあらゆる菩薩行を行う力を体得する」

つまり、この地にある菩薩は、無量無辺の仏国土(三千大千世)のすべてにわたってあまねく偏在するということである。この菩薩は、「一つの仏国土から微動だもしないままに、無数の仏国土の説法会に、みずからの姿を顕現させることができる」のである。

ただに無数の仏国土に偏在するのみではない。それら仏国土のすべてについて如相をさとっている。そこに生きる衆生の全活動を、またその仏国土を形成しているすべての原子とその組み合わせを、つまり全宇宙の生成の過程をすべて知っている。こういうと、西洋的な考えでは、この境地にある菩薩は神にほかならないと思われるかもしれないが、菩薩はまだ仏ではないし、ましてや西洋的な意味での神ではない。神という言葉は、仏教では、西洋とは異なった様相で受けとめられているが、それは別にして、菩薩が全宇宙をその掌中に捉えることができるのは、菩薩が法身の一部を具有していることに基づく。法身は抽象的な原理であるが、それは歴史的な人間である釈迦に宿ることで如来乃至仏といわれる。菩薩はその法身を、釈迦よりも低次な次元で体現したものと思念される。それでも菩薩の力は、全宇宙をその掌中におさめるほどに偉大なのである。

この地にある菩薩が「まったく不動なる」菩薩と呼ばれるのは、もはやいかんとも動かしがたく、一歩も退転しないからである。ここまでくれば、あとは仏の境地に達することをめざすばかりである。

この地にある菩薩はまた、大梵天となって、三千世界を支配する。「あらゆるものを征服して、いかなるものにも征服されない。あらゆるもののためになることを観照して、自由自在なる働きを体得している・・・十百千三千大千世界の原子の微粒子の数にひとしい世界を照明する。十百千三千大千世界の原子の微粒子の数にひとしい衆生を菩薩道に成熟させる。十百千三千大千世界の原子の微粒子の数にひとしい劫のあいだ、生きつづける。十百千三千大千世界の原子の微粒子の数にひとしい劫にわたるまで、過去についても、未来についても知る。十百千三千大千世界の原子の微粒子の数にひとしい種類の法について思惟する。十百千三千大千世界の原子の微粒子の数にひとしい身体をあらわし出す。その一つひとつの身体について、十百千三千大千世界の原子の微粒子の数にひとしい脇侍菩薩をあらわし出す」





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