八千頌般若経を読む

| コメント(0)
般若経はさまざまな経典からなっている。主なものをあげると、八千頌般若経、二万五千頌般若経、十万頌般若経、金剛般若経、大般若波羅蜜多経などがある。般若心経は、般若経の教えを簡潔にまとめたもので、大衆向けのパンフレットのように使われている。これらのうち、八千頌般若経はもっとも古く成立したものと考えられている。金剛般若経とどちらが古いかについて論争がなされたが、両者とも空の思想を説きながら、金剛般若経には空の言葉が使われておらず、八千頌般若経には使われていることから、金剛般若経のほうが古く成立したとする説が有力である。 八千頌般若経を踏まえて 二万五千頌般若経が成立したと考えられる。竜樹の「大智度論」は二万五千頌般若経への注釈として書かれた。

八千頌般若経は三十四の章からなっている。最初の三つの章で、般若経の基本思想である空の思想と大乗の意義(小乗との差異)が語られ、残りの章では、さまざまな菩薩による悟りの実践について語られる。このお経は、大乗経典としてもっとも古いものであることから、小乗と比較した大乗の意義を強調する。大乗とは、大きな乗り物という意味であるが、それは小乗のように個人の悟りを以て最終目的とするのではなく、広く衆生を救済することをめざしている。そのような大乗の実践者を菩薩という。したがってこのお経は、菩薩がなすべき修行の内容について、ことこまかく説くのである。

初期の大乗経典であることから、いきなり菩薩を主人公にするのではなく、シャーリプトラ(舎利弗)とかスプーティ(須菩提)といった阿羅漢(釈迦の高弟)が重要な役割を果たしている。お経の主要部分は、世尊(釈迦)とそれら阿羅漢との対話という形をとっている。それに帝釈天はじめさまざまな天子や眷属が加わって、大乗仏教の基本的な思想のやりとりをするのである。

ここでは、平川彰による現代語訳(筑摩書房刊「古典世界文学仏典Ⅱ」所収)をテクストに使う。これは、最初の三章と第三十章を収めている。全体の分量の四分の一に相当するそうである。第一章は、「一切の様式をもつ智慧の実践」と題して、般若波羅蜜の意義及び菩薩大士の責務について述べられ、第二章は、「神々の主帝釈天の聴聞」と題して、般若波羅蜜の実践について述べられ、第三章は、「仏塔礼拝と般若波羅蜜の功徳」と題して般若波羅蜜を受持・実践することによる功徳について述べられる。飛んで第三十章は、「常諦菩薩の求法」と題して、さとりを求める菩薩の修行の一例が紹介される。悟りを求める修行者が各地を遍歴しながら次第に菩薩の境地に近づいていくさまは、後に「華厳経入法界品」において善財童子の遍歴の旅として完成された菩薩修行の原型のようなものである。

お経はまず、霊鷲山を舞台として、そこに集まった千二百五十人の修行僧を前に、最長老のスプーティに、世尊が次のように語りかけるところから始まる。世尊はこう語りかけたのだ。「スプーティよ、かの菩薩大士たちが、般若はらみつを得んとの心をおこし、その菩薩大士たちが、いかに般若はらみつに進み入るか、そのことを明かにしなさい」と。それに対してスプーティは、「尊き師よ、わたしは菩薩という存在物を見出しません。同様にわたしは、般若はらみつという存在物を見出しません。尊き師よ、このわたしは、菩薩をも、菩薩という存在をも発見せず、獲得せず、見出さないのに、どのような菩薩を、どのような般若はらみつを教戒するのでしょうか、また教授するのでしょうか」と言ってたじろくのであるが、世尊の導きもあって、世尊の問いかけに適切に答えていけるのである。その答えの内容が、般若波羅蜜とは何かということであり、菩薩とはその般若波羅蜜を体得すべく修行する人だということなのである。しかして般若波羅蜜を完全に体得したものが、自身が涅槃の境地にいたるのみならず、衆生をも涅槃に導くべく慈悲を垂れる。そのような究極的なあり方を如来と称するのだと説かれる。





コメントする

アーカイブ