八千頌般若経を読むその三:菩薩大士とはだれか

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八千頌般若経の眼目は、般若波羅蜜の意義と功徳を説くとともに、その般若波羅蜜の体現者としての菩薩大士のあり方について説くことである。菩薩という言葉は、大乗経典のもっとも古いお経である般若経が、はじめて用いた。それは、仏教的な意味でのさとりを得る人あるいは得た人を意味する。同じような意味合いで、阿羅漢という言葉がある。阿羅漢は、原始仏教以来使われている言葉で、やはりさとりを得た人を意味するが、そのさとりとは、とりあえず阿羅漢個人として、自分自身の救済としてのさとりであった。ところが、自分自身のさとりにとどまらず、一切衆生のさとりのために努力すべしという考えが起ってきた。そうした一切衆生のさとりのために努力する人を、阿羅漢とは別に菩薩という言葉で表現した。つまり菩薩は、自分個人のためにさとりをめざす人を超えて、一切衆生のためにさとりをめざす人へと転換したのである。

菩薩の概念は、部派(小乗)仏教に対する大乗仏教の眼目をなすものである。大乗とは大きな乗り物という意味で、具体的には一切衆生をもれなく受入れて、かれらをさとりにみちびく乗物だとされる。それに比べて小乗は、小さな乗物という意味で、特定の選ばれた人間だけが、さとりを得て阿羅漢になれると説く。もっとも、これは大乗仏教からの言い分であって、小乗と呼ばれた人々がそう言ったわけではない。小乗という言葉には、価値の劣ったものという意味が含まれており、そう呼ばれる当人が好んで使うわけがない。

ともあれ、このお経(八千頌般若経)は、菩薩大士とは誰かという問いへの答えとして展開される。面白いのは、そうした議論が世尊と阿羅漢とのやりとりの中で展開されることだ。菩薩当人も、常諦菩薩とかダルマウドガダ菩薩という姿で出てくるが、それはお経の後半で、般若波羅蜜の意義とその体現者としての菩薩大士のイメージが確立した後のことである。菩薩とはそもそも誰のことか、についての根本的な議論は、阿羅漢たちを中心にして行われるのである。このことは、般若経がもっとも古い大乗経典として、小乗と大乗との転換点に位置するということからきているのであろう。

菩薩はこのお経では「菩薩大士」という形で触れられる。要するに菩薩と大士との複合語である。その二つのうち、菩薩は悟りを得る人として、大士は大乗の教えに通じた人として定義される。さとりとは空の思想に通じることであり、大乗の教えとは、己のみではなく一切衆生の救済に努めるべきだということである。そこで改めて空の思想が説かれ、また、一切衆生の救済をめざす菩薩の誓願について説かれる。空の思想とは、あらゆる存在に執着せず、束縛されないことを強調するものであるが、そうした姿勢こそ菩薩大士の根本的なあり方なのである。それを菩薩大士は誓願という形で武装するのだという。

菩薩大士の誓願は、主として衆生の救済に向けられる。それを最も尖鋭な形で示したものとして、大無量寿経における誓願の説があるが、ここでは、そんなに具体的には示していない。ただ、「菩薩大士は一切衆生にたいして、母の想、父の想、息子の想、娘の想、ないし自己の想を生ずべきであります。自己が、一切の苦から完全に解脱すべきであるのと同様に、すべての人が、完全に一切の苦からのがれるべきであります」と説かれる。

しかし、菩薩大士は、自分の使命に陶酔するあまり、自己を過大評価してはならない。何故なら、菩薩といっても、それは名称のみだからである。般若波羅蜜もまた名称のみである。同じく自我も名称のみであり、畢竟寂滅である。これは、空の思想を別の言葉で述べたものであるが、一切が空であるがゆえに、菩薩が菩薩としての自己意識を持つことも空しいのである。だから、菩薩としての自己を過大評価すべきではないということになる。

空の思想を徹底すると、「物質現象は空である、空でないということにも、立場を置くべきではありません」ということになる。物質現象が空だからといって、その空性をことさらに強調するのはばかげているというのである。

以上のように、八千頌般若経は、空の思想に依拠しながら、その思想の体現者として一切衆生の救済をめざす菩薩を修行者のあるべき姿として打ち出したところに、大乗仏典のくさわけとしての意義を指摘できる。以後さまざまな大乗仏典が現れるが、それらは、阿羅漢がかかわる過渡的な事態を経て、やがて菩薩が中心となって仏教の教えを展開するようになっていくわけである。





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