意識と無意識:カントの人間学

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カントの哲学は、意識の直接与件としての直感から始まる。その直感は感性と呼ばれ、感覚と構想力からなるとされる。感覚は現前している対象の直感であり、構想力は対象が現前していなくとも作用する直感をいう。いずれも具体的には表象という形をとる。その表象が意識の内容を占めるわけであるから、意識は表象に異ならないともいえそうである。事実ジョン・ロックは、意識と表象とは全く同じものだと考えた。しかしカントは、意識と表象とは厳密に一致しないと考える。意識されない表象もあると考えるのである。

こういうとカントは無意識を前提としていたように思われる。だがカントは、フロイト的な意味での無意識を考えたことはない。フロイト的な意味での無意識は、人間の思考や行動に大きな影響を及ぼすと考えるわけだが、カントはそういうふうには見ない。フロイト的な意味での無意識は、意識とは全く次元を異にした実体的な精神領域だが、カントの無意識は、意識が限りなく微弱な状態を指すに過ぎない。フロイトによる意識と無意識の差異は質的な差異であるのに対して、カントの場合には、意識と無意識の差異は量的な差異にとどまる。

つまりカントによれば無意識とは意識が限りなく弱まった状態を指すのである。したがって、人間の認識作用に重大な影響を及ぼすことはない。せいぜい、認識を混乱させたり不明瞭にしたりするに過ぎない。正しい認識ははっきりとした意識によって行われるのである。だからカントの哲学は、あくまでもはっきりした意識を前提にしたものである。

そこで、意識の明晰と判明が問題となる。カントによれば、明晰な意識とは、ある対象についての表象が別の対象の表象と明確に区別されていることをいう。いまふうの言葉でいえば、対象が別の対象から明確に弁別されていることをいう。対象の認識とは、あるものを別のものから分別し差異化することのうえに成立する。それをカントは、カントなりの言い方で明晰な意識と呼んだわけである。

一方、個々の明晰な意識の表象が合成され、その合成された表象が明瞭な場合を判明という。明晰が単純な個体的対象について言われるのに対して、判明は複雑な合成された対象について言われるということになる。合成された表象を判明なものにするについては、一定の秩序が必要である。その秩序にしたがって個別の表象が合成されることによって判明な表象が成立するわけである。

こんなわけでカントの哲学は、明晰な表象と判明な意識を前提にして成立しているということができる。不明晰で不判明な意識においては、言葉の本来に意味における正しい認識は得られない。正しい認識とは、意識の直接与件としての直感の内容を、悟性の先験的な秩序・枠組にあてはめることから得られる。そのためには、直感についての明晰な表象が与えられ、それを悟性の先験的な枠組みに秩序よく当てはめねばならない。どちらか一方が欠けていても、正しい認識は得られない。

とはいえ人間は、明晰な意識だけを持つわけではない。むしろ逆である。表象しているにかかわらずそのことを意識していない直感や感覚の領野、すなわち不明瞭な表象の領野のほうが圧倒的に広大なのであり、「明晰なる表象はそれらのもののうち意識に露出されたわずかな点を含むに過ぎないということ、いわば我々の心意の広大な地図の上にごくわずかな地点のみが照出されているに過ぎないということ」(「人間学」坂田徳男訳)は驚嘆に値するとカントは言っている。

そう言って無意識の意義を強調しつつ、カントはそれが人間の認識に及ぼす影響については、深入りすることをしない。あたかも、無意識は出来損ないの意識であり、したがって意識を理解すればおのずから無意識も理解できるのであって、無意識をそれ自体として問題とするには及ばないと考えているようである。

ともあれカントは、意識を舞台として人間の認識のメカニズムを研究した。そのうえで、認識能力の優れた人を智才と呼び、劣った人を魯鈍と呼んでいる。またそうした能力の使用において独創性を発揮する人を天才と呼んでいる。また博識であっても自分の頭で考えない人を愚昧とよんでいる。世の中にはそうした愚昧な人がごまんといる。むしろ愚昧な人々によって世の中が構成されているといってよい。そうした愚昧な人をカントは太鼓にたとえている。太鼓は音をたてるばかりで中身は空っぽだからだ。日本の俚諺でいえば、五月の鯉のぼりに譬えられるであろう。口先ばかりで中身は空っぽという意味である。

如上のようなカントの考え方が、精神病理学には適用できないことは明らかだと思われる。カントの考え方によれば、精神の病理は失敗した意識の産物とみなされるだけで、それ自体に独自の発症メカニズムをもっているとは考えられないからである。精神病理としての精神病には、たしかに意識の失敗という面がないわけではないが、それのみによってはとても説明がつかない。もっともカントに、そんな批判を加えるのはお門違いかもしれない。カントの時代には、精神病理についての知識は未熟なものであったし、カント自身、そうした問題に積極的な関心を持っていたわけではなかった。





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