保坂正康「時代に挑んだ反逆者たち」を読む

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保坂正康の著作「時代に挑んだ反逆者たち」は、日本の近現代史における権力への反逆者十人をとりあげ、その歴史的な意義を考えようというものである。だが、保坂のいう反逆者の定義がいまひとつ恣意的に思われる。かれは冒頭に石原莞爾をもってきて、石原こそが、日本的な反逆者の典型のような書き方をしているが、石原は権力への反逆者というより、権力そのものだったのではないか。石原は謀略を弄して満州事変をでっちあげ、日本の対中侵略の先兵になった。また、アジア主義を標榜して日本の海外侵略を正当化するなど、権力の野望をそのまま体現したような人物だ。そのような人物を、日本の歴史における反逆者の筆頭にあげるというのは、理解に苦しむところである。

保坂が、石原に続いて取り上げる宮崎滔天にしても、かれが権力へ反逆したというのはかなり偏った見方である。宮崎のやったことで歴史上意味のあることといえば、孫文による中國革命を支援したことだが、これは、中国の清朝にとっては反逆者の一味かもしれないが、日本政府にとっては、ほとんど痛痒を感じないことがらだ。だいいち宮崎は、基本的には、頭山満と似た右翼の活動家であって、おおよその日本の右翼同様、権力に色目を使うことはあっても、体制をひっくりかえそうなどという考えは露も持たなかった。

以後保坂は、出口王仁三郎以下大石内蔵助にいたるまで八人をとりあげ、全部で十人の反逆者について、その歴史的な意義につい論評するのであるが、それらのうち、本当に反逆者といえるものは、大塩平八郎と田中正蔵くらいではないか。田中にしても、天皇制権力に反逆しているという意識はなかった、一部の権力者たちの横暴を、真の権力者である天皇にただしてもらいたいと思っただけだ。

田代英助を保坂は秩父困民党の首謀者と位置づけ、その義侠心に富んだ反逆ぶりを賞賛している。小生は秩父困民党については余り知るところがなく、まして田代英助のした仕事についてはほとんど何も知らなかったのだが、保坂の書いているとおりだとしたら、これも反逆者の名に値するだろう。しかし、かれの場合にも、勝算があって反逆に立ち上がったわけではなく、なりゆきに迫られて、決死の覚悟で立ち上がったということのようだ。秩父困民党の一揆は、やむにやまれず追い込まれて起きたという点では、徳川時代の一揆より勝算がなかったといえる。だからそれが一揆に終わったのだとしたら、たいした歴史的意義は持ちえなかった。それがもし歴史的意義を帯びるとすれば、当時全国で勃発した自由民権運動の一環としてだろう。ところが保坂の視点は、自由民権運動には向かず、田代個人の義侠心にもっぱら向けられている。

大石内蔵助を最後に持ちだしたのは、保坂一流の愛嬌だろう。大石は権力への反抗から立ち上がったというよりは、武士の面子にこだわったと見る方が、よほど真相に迫っているといえる。鴎外居士が言うように、徳川時代の武士は、ことのほか男の意地としての面子にこだわったのである。





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