日本のジャーナリズムに活路はあるか

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雑誌「世界」の最近号(2022年8月号)が、「ジャーナリズムの活路」と題して、日本のジャーナリズムが直面している困難について特集している。一応、ジャーナリズム一般をテーマとしているが、中でも新聞の直面している状況に対して深刻な問題意識を持ったものにインパクトがある。そこでここでは、新聞を中心にして日本のジャーナリズムが直面している課題について、小生なりに考えてみたところだ。

日本の新聞の発行部数は劇的な減少傾向を示しており、2002年に5320万部あったものが、2021年には3302万部にまで減った。この傾向は今後も続くことが予想され、新聞界が漫然とやり過ごしていると、従来のビジネスモデルが破綻することは間違いない。下手をすると、紙のニュース媒体としての新聞の存在意義が消えてしまうかもしれない。

新聞のこうした苦境の原因は二つあるというふうに、論者たちからは伝わってくる。一つはネットの普及によって、新聞がニュース媒体の中心という地位を脅かされていること。もう一つは、新聞業界に健全なジャーナリズム形成に向けての意欲がなく、そのことで社会の信頼を失いつつあるということだ。

ネットとの関係はそれ自体興味深いことであり、その潮流に向かって新聞業界が対応を間違えるととんでもないことになるということは、誰もが考えることだろう。今日の新聞の苦境は、そうした潮流を甘く見くびり、適切な対応を行って来なかった新聞業界の古い体質に問題があるという指摘も納得できるものである。

しかし、もっと根本的な問題は、新聞がジャーナリズムの使命を軽視していることだ。南彰の寄稿した文章「メディアは自らを改革できるか」は、今日の新聞が抱えている深刻な問題を指摘して、今後社会に信頼される新聞をつくっていくためには、何が必要かを論じたものだが、この論文は、日本のジャーナリズムが国際的に低い評価しか得ていない理由として、①記者クラブの閉鎖的なシステム、②首相や官房長官とメディア幹部の会食、③ジャーナリズムの連帯の欠如をあげている。こうした体質が、新聞への社会的な信頼を損ない、それが新聞全体の発行部数低下という現象につながっているというわけである。

要するに新聞を中心とした日本のジャーナリズムは、権力に対する批判的な姿勢を放棄して、かえって権力と一体化し、権力のパートナーとして振る舞う一方、同業者同士では連帯の精神にかけ、かえって足を引っ張りあっている。いわゆる記者会見の席上、権力に批判的な質問をする記者に対して、同業他社の記者がその記者を冷笑するようなことが普通におきていることは、日本のジャーナリズムの異様な体質を物語るものだと、この記事はほのめかしている。

たしかに、こんな調子では、新聞が社会の信頼をつなぎとめることはできないだろう。今後もし日本の新聞が無用の長物として顧みられなくなったとしたら、その責任の大部分は、新聞業界自体にあるということになりかねない。





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