斎藤美奈子「文庫解説ワンダーランド」を読む

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鋭い舌鋒で当世の日本人を批判することで定評の斎藤美奈子女史が、文庫の最後におまけとしてついている「解説」をとりあげて、それを面白おかしく料理してみせたのがこの本(「文庫解説ワンダーランド」岩波新書)である。じつは、元になった文章は、岩波の読書誌「図書」に連載されており、それを小生も読んでいたのだったが、岩波新書に収めるにあたって、大規模に書き換えたそうなので、また新たな気持ちで読むことができる。

文庫についている「解説」なるものに、小生は日ごろから不満を持っており、ほとんど読まないことにしている。著者自身の書いた「あとがき」は大変重宝しており、こちらはまず最初に読んでいるほどだが、「解説」を読む気にならないのには理由がある。その理由を女史のこの本は明快にしてくれる。

女史は古典作品を例にとって、解説の役割は基本的には以下の三点だという。
 ①テクストの書誌、著者の経歴、本が書かれた時代背景などの「基礎情報」
 ②本の特徴、要点、魅力などを述べた読書の指針になる「アシスト情報」
 ③以上をふまえたうえで、その本をいま読む意義を述べた「効能情報」

だが、実際にはこれらの条件を満たした解説は非常に少ないのだそうだ。「そうだ」などと他人事のような言い方をするのは、先ほども言ったように、小生は「解説」なるものに不満を感じていて、ほとんど読むことがなく、したがってそれについて掘り下げて考える習慣をもたないからだ。

女史によれば、じっさいの解説は、とくに日本現代文学の解説によくあることだが、次のような特徴を指摘できるという。
 ①作品を離れて解説者が自分の体験や思索したことを滔々と語る
 ②表現、描写、単語などの細部にこだわる
 ③作品が生れた社会的な背景には触れない
女史のこの指摘は、大部分当たっていると思う。小生が「解説」をうさん臭く思うのは、解説と称して、作品ではなく解説者の私事を滔々と語る類のものが圧倒的に多いからである。そんなものを読まされても、作品の理解には何の足しにもならないし、第一、第三者の私事を聞かされるために、解説を読むわけではない。

解説者が自分の私事を語りたがるというのは、どうも日本特有の現象らしい。女史はその現象の原因についてそれとなく暗示している。私小説の伝統が批評の領域にも根づいているというのだ。日本の批評に大きな影響を与えた人物として小林秀雄があげられる。その小林を女史はかなり手厳しく批判している。小林の批評は、論理性とは無縁で、小林本人の感性をだらだらと披露するものがほとんどなのだが、これは世に印象批評といわれており、その印象批評が日本の批評界を席巻してきた。印象批評というのは、作品を棚に上げて評者の私的な感情をだらだらと述べ立てる類のものをいう。それはおそらく、作品を私小説的に読んだうえで、それについての評者の私的な感情をさも大袈裟に語るということなのだろう。つまり、小林がそうした私小説的な態度を批評の世界に持ち込み、それを後輩たちが受け継いで、世界に類まれな印象批評の流行をもたらした、というふうに女史は考えているようなのである。

女史のそうした見立てには小生も裨益されるところがある。たしかに日本の批評界は、批評の国際的な水準を満たしていないものが非常に多い。中にはまともな批評もあって、その例を女史はいつくかこの本で取り上げ褒めてはいる。だがそうした骨のある批評は、日本では例外的であって、大部分はわけのわからぬ印象批評なのである。実に困ったことというべきであろう。

斎藤美奈子,文庫解説ワンダーランド





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