或売笑婦の話:徳田秋声の短編小説

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徳田秋声は非常に多産な作家で、数多くの長編小説とともに短編小説もかなり書いている。長短編を書き分ける作家には、長編小説を中心にして、一編の長編小説をかいたあとに、次の長編小説にとりかかるための息抜きのようなものとして短編小説を書くというタイプが多い。息抜きという言葉が適当でないなら、ウォーミングアップといってもよい。村上春樹などは、次の長編小説へのウォーミングアップとして短編小説を書くと言っている。

徳田秋声の場合には、長編小説と短編小説を同時に書いている。だから、短編小説は長編小説に従属する位置づけではなく、それ自体としての意義をもったものと考えていたのだと思う。とはいえ、短編小説を長編小説と全く異なったものと考えていたわけでもないようだ。秋声の短編小説は、テーマのとり方をとっても、叙述のスタイルにおいても、基本的に長編小説と異なるところはない。テーマは相も変わらず私小説的な世界からとられているし、叙述のスタイルも長編のそれと変わらない。ただ短編小説は、あまり多くの事象を盛り込むわけにはいかず、短い文章をもって完結せねばならぬので、勢いこじんまりした印象のものに仕上がってはいる。

「或売笑婦の話」と題した短編小説は、大正九年(1920)に書かれた作品だ。この時期の秋声は、大正四年(1915)に「あらくれ」を書き上げて自分なりに一つのピークを極めたあと、中だるみの状態に陥っていた、というのが大方の批評家の言うところである。長編小説を手がけたりしているが、だらけた印象はぬぐえない。そういう中で秋声は、スランプから脱する手立てをさがしていたのではないか。この短編小説からは、そうした秋声のあがきのようなものが伝わってくるのである。

タイトルにあるとおり、ある売笑婦の生きざまに焦点をあてた作品である。秋声がここで「売笑婦」と呼んでいるのは、街娼のようなものではなく、それなりの文化的伝統をもつ芸者のことである。秋声は、晩年に近づくにつれて芸者に強い関心を持つようになり、芸者の生き方をテーマにした小説を書くようにもなった。かれの絶筆となった「縮図」は、一芸者の流転の人生をテーマにした作品である。その芸者を秋声が短編とはいえ小説のテーマに択んだのは、この「或売笑婦の話」が嚆矢となるのではないか。それまではもっぱら私小説的なことばかり書いてきた秋声が、それに行き詰まりを感じ、新しい文学世界を切り開くヒントとして、芸者をテーマにとりあげたのではないか。

とはいっても、「縮図」におけるような、芸者の身に寄り添ったような視点はまだ確立されていない。タイトルが示しているとおり、芸者に対する突き放した視線を感じさせる作品である。この小説の中の主人公である芸者は、ただ「女」とのみ呼ばれている、固有の名をもった自立した女性としては描かれていない。しかもその生き方が読者の深い共感を呼ぶようなものとしても描かれていない。この小説のあらすじをごく簡単にいえば、惚れた男の家を訪ねた際に、その男の父親と邂逅するのであるが、その父親というのが、自分の馴染みの客だった、というような救いようのない話なのである。その救いようのない話を、秋声は突き放したような視線から語っている。

そんなわけでこの小説は、秋声の晩年を彩った芸者の生きざまの発するオーラのようなものは一切感じさせない。かえって芸者を滑稽化している。こんな風に描かれたら、当の芸者には立つ瀬がないであろう。

ともあれ、この小説は、出入りの植木職人の噂話とことわった上で語られる。噂話を孫引きするのであるから、そこに作者の個人的な思い入れは介在しないということになっている。秋声にはまだ、芸者の身に強く寄り添うという覚悟が、この時点では、なかったのであろう。

「蒼白い月」は、「或売笑婦」とセットで岩波文庫に収められているが、これも大正九年に書かれた作品である。こちらは、秋声得意の身辺小説の類で、とくに筋らしきものはない。秋声独特の、例の冷笑的な視線が上滑りに伝わってくるだけである。批評家には、この作品の完成度をほめるものもいるが、筋書きらしきものもなく、人間社会に対する作者の深い分析も感じさせないような作品に、完成度もなにもあったものではないだろう。秋声得意の身辺小説のテクニックを用いて、当座の都合を糊塗したといったほうが当たっているようである。





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