中論を読むその二:原因(縁)の考察

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中論は全二十七章からなるが、その全体の序文のような位置づけで、「帰敬序」という文章が冒頭に置かれている。次のようなものである。

「(宇宙においては)何ものも消滅することなく(不滅)、何ものもあらたに生ずることなく(不生)、何ものも終末あることなく(不断)、何ものも常恒であることなく(不定)、何ものもそれ自身と同一であることなく(不一義)、何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることなく(不異義)、何ものも(われらに向かって)来ることもなく(不来)、(われらから)去ることもない(不出)、戯論(形而上学的論議)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最も勝れた人として敬礼する」

これは、「不滅」以下八つの「不」を説いていることから、「八不」と呼ばれる。これら八つの「不」は、「不生不滅」、「不定不断」、「不一不異」、「不去不来」という四つの概念セットに分けられる。それらはいずれも、縁起の思想をかみ砕いて説明したものである。縁起の思想は、あらゆる事物に存在という本性(自性)を認めず、すべては相依しあっているとする主張である。その具体的な内容については、各論の部分で詳しく見ていくこととしたい。

中論本文の第一章は、「原因(縁)の考察」と題して、縁起についての総論的な説明をしている。まず、「もろもろの事物はどこにあっても、いかなるものでも、自体からも、他のものからも、(自他の)二つからも、また無因から生じたもの(無因性)も、あることなし」。これは、縁起が不生不滅であることの説明である。縁起が不生不滅なのは、事物に自性がなく、したがってそれ自体としては存在しないためである。もともと存在しないものが、生じたり滅したりすることはない、というのが不生不滅の具体的な主張である。ここで存在しないと言っているのは、具体的個別的な事物が存在しないということではなく、自性としては存在しないという意味である。自性というのは、抽象的な概念であるから、その概念に実在性がないと言っているわけであり、個別具体的な事物の存在まで否定しているわけではない。

縁起は、縁についての説であるが、その縁には四つの種類があるという。それを四縁という。「原因としての縁(因縁)と、認識の対象としての縁(所縁縁)と、心理作用がつづいて起るための縁(等無間縁)と、助力するものとしての縁(増上縁)とである」。ちょっとわかりにくいが、因縁は存在論的なレベルでの縁起、ほかの三つは認識論的なレベルでの縁起であろう。存在論的には、あらゆる事物には自性がない。だから自性相互の間には因縁は成立しないということになる。一方認識論的には、あらゆる概念化作用は、事物の抽象にもとづくものであるから、それは夢幻のようなものであり、本性は認められないということになる。

「もろもろの事物をそれらの事物たらしめているそれ自体(自性、本質)は、もろもろの縁起の中には存在しない。それ自体(本質)が存在しないならば、他のものは存在しない」。つまり、本質としての原因は存在しないのだから、そこからは何も生じない、したがって因果は成立しないというのである。この主張が、第一章「原因(縁)の考察」の核心的な内容である。原因を考察するとうたっておきながら、原因とそれがもたらす結果は存在しないというわけだから、原因を探求するのではなく、それの否定を基礎づけようとする意図をこの章は持っているわけである。

縁起についての中論の思想を中村は、もろもろの自性が相互に依存しあうという相依関係にあるとすることだと見ている。それはあくまでも関係を重視するものであって、関係の担い手としての実体とか自性と呼ばれるものを否定する。関係を実体視し、本質とか自性の実在性を主張したものとして、説一切有部があるが、ナーガールジュナの批判がその説一切有部の実念論に向けられているのは、けだし関係概念の抽象性を重視するナーガールジュナとしては当然のスタンスだった。説一切有部の本質実在論と、ナーガールジュナの本質存在否定論とは、西洋における実念論と唯名論の対立にほぼ並行していると中村は見ている。

説一切有部とナーガールジュナの対立は、法有と法空との対立と言い換えられる。法は、ここでは本質というような意味であるが、その本質が実在するとするのが説一切有部の主張であり、本質は実在せず空であると主張するのがナーガールジュナである。その場合に空とは、無という意味ではなく、縁起と同義である。





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