アジア主義への傾斜:日本の右翼その四

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明治維新からアジア・太平洋戦争の敗戦にいたる時期の日本の右翼は、国内的には皇道主義、対外的には侵略主義を特徴としていた。その日本の侵略主義をもっとも強く体現していたのは、玄洋社の頭山満である。頭山には大した思想性はないが、あえて言えば、西郷隆盛の影響を強く受けていることである。西郷の思想は、簡単に言うと道義主義と対外膨張主義ということになるが、頭山はそのどちらをも受け継いだ。道義主義は皇道主義という形をとり、対外膨張主義はアジア主義という形をとった。

西郷の対外膨張主義としては、征韓論がよく知られている。征韓論は単なる朝鮮征伐のように聞こえるが、実際には秀吉のような一方的な征伐ではなく、日本が朝鮮の兄貴分として、朝鮮とが協力し合って、西洋の圧力を跳ね返そうという意図をもったものだった。そうした西郷の対外的な進出にかかわる思想を、頭山は受け継いだ。頭山の対外政策は、一方的な侵略ではなく、日本がアジアの親玉として、アジア諸国と協力し合って西欧の横暴に立ち向かおうというものであった。それゆえ彼の対外政策はアジア主義と呼ばれるのである。頭山は民権派として出発した頃には、対外問題への発言をほとんどしていないが、民権から国権へと転換した後は、対外進出を積極的に主張するようになった。

頭山と玄洋社がアジア問題に深くかかわっていくのは、朝鮮の壬午軍乱がきっかけだったといわれる。壬午軍乱は、清国からの独立をめざす金玉金らの企てにかかわっていたものだが、その軍乱が清国の軍事力によって鎮圧されると、頭山らは朝鮮から清国の影響を排除し、日本が朝鮮と結んでアジアの解放に努力すべきだと主張するようになった。これ以後、頭山と玄洋社は、一貫してアジア問題にコミットしていく。

周知のとおり、日本はその後日清戦争に勝利し、台湾を割譲させたうえに、朝鮮における利権の確立に足がかりを得た。その後日本は、日露戦争の勝利を経て、1910年に朝鮮を併合するのである。

日清戦争の勝利は、日本人の民族的誇りと愛国心をたかめ、右翼的な風潮が強まっていった。そういう中で玄洋社は、右翼運動の主流として大きな影響力を発揮していくのである。玄洋社以外に有力な右翼団体がなかったわけではない。たとえば、反ロシア運動に中心的な役割を果たした国民同盟会がある。これは、東亜同文会が中心となった運動で、「支那保全」と「対露開戦」の世論作りを担ったものであった。「支那保全」は具体的には満蒙における日本の権益を守ろうということであり、それを疎外せんとするロシアを敵視して、「対露開戦」を主張したわけである。

対露開戦を強力に主張した団体としては、黒龍会があげられる。黒龍会は、明治三十四年(1901)に内田良平らによって結成された右翼団体だが、内田は、玄洋社初代社長平岡浩太郎の甥であり、頭山とは深いつながりがあった。黒龍会が玄洋社の対外部隊といわれるのは、そうした事情による。

黒龍会は、満州を活動の拠点にして、満蒙独立と日本による支配体制の確立に努める一方、孫文ら中国本土の革命運動にも深くかかわり、かれらなりのアジア主義運動を推進したのである。なお、黒龍会の名称は、満露国境を流れる大河黒龍江にちなんでいる。玄洋社の名称が玄界灘にちなんだひそみにならったものであろう。

日本は、1910年に朝鮮(韓国)を併合するのであるが、これについて日本の右翼は手ばなしで喜んだわけではない。頭山にしろ内田にしろ、日本による韓国の一方的な併合は好ましくないと思っており、できたら併合ではなく合邦というかたちで日韓が協調できる体制を作ったうえで、欧米列強の横暴に立ち向かいたいという考えをもっていた。対中関係においても、日本による一方的な侵略ではなく、日中が緊密に連携しあって欧米の力に対抗すべきだとの考えをもっていた。そうした当時の日本右翼の主流の考えは、後に大川周明によって、大アジア主義という形に集成される。





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