海老坂武「サルトル」を読む

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日本でサルトルが流行したのは1950年代から1960年代にかけての十数年間のことで、1970年頃には誰も気にかけなくなってしまった。そんなわけか、サルトルについての本格的な研究書は、日本では書かれなかった。竹内芳朗が1972年に「サルトル哲学序説」(筑摩叢書)というのを出していて、これが日本ではほとんど唯一といってよいサルトル入門書であるが、これを読んでもサルトルの思想は伝わってこない。著者の竹内が、サルトルの名を借りて、サルトルとは関係のない、自分自身の思いを語っているからだ。

海老坂武が岩波新書から「サルトル」を出したのは2005年である。この時点では、サルトルは日本では全く過去の人となってしまっており、しかもどちらかというと、マイナーな思想家扱いされていたのだったが、海老坂は、サルトルは忘れてもよい思想家ではなく、21世紀になっても十分に存在意義を持っていると主張した。そこでサルトルの思想の何が、21世紀の今日にもなお有効なのかが問題になるが、海老坂のこの本を読んでも、それが伝わってこない。海老坂は、竹内ほどではないが、サルトルのテクストに沿って内在的な批判を展開しているというよりは、サルトルの名を借りながら、自分自身の思いを語っていることが多い。こういう批評のやり方は、小林秀雄が悪い手本を見せて以来、日本人の悪癖になっているのだが、その悪癖に海老坂も染まっているということらしい。

サルトルといえば、小生などはまず哲学者としてのイメージを思い浮かべるのだが、サルトルには他に、小説家としての面や、劇作家としての面や、評伝者としての面もある。海老坂が主に着目するのは、小説家としてのサルトルや、劇作家としてのサルトルである。それも、小説や演劇のテクストを内在的に腑分けするというやり方ではなく、サルトルの生き方とかかわらせながら論じるという外在的な方法を選んでいる。そこで海老坂にとっては、サルトルの生き方というか、振舞いの癖みたいなものが気になるらしい。サルトルには独特の癖があったらしいが、それはサルトルの出自とか、彼が抱えていたコンプレックスに由来するということのようだ。サルトルが、フランス人としては非常にチビで、かなりな醜男だったことはよく知られている。一方で、かれは豊かで教養のある家で育ち、独特のエリート意識を持っていた。だからサルトルの中には、劣等感と、その裏返しとしての優越感とが共存していた。そうしたサルトルの性格は、サルトル自身にとっては、実存が本質に先だつというより、存在が実存に先だつあり方を反映していた、というのが海老坂の見立てである。サルトルほど人間の自由を云々した20世紀の哲学者はいないが、そのサルトルが、自分にはどうにもならない事情に束縛されていたというわけである。

自由との関連をいえば、サルトルは、人間にとって社会的・歴史的制約が最大のテーマとなった20世紀の思想界において、デカルト的な意識の自主性(自由)にこだわった稀有な思想家だったといえる。サルトルにとって、意識の自由は絶対であり、無意識などというものは、意識という言葉の定義からしてありえないことだった。サルトルはそうした立場から、意識の絶対性を論じた。それが初期の代表作「存在と無」である。この書物のタイトルにある「無」とは、要するに意識のことをいうのだが、その意識が存在を基礎づけるというのが、この書物の主張するところの眼目である。要するに哲学者としてのサルトルは、装いを新たにした唯心論者だったのである。だがそうした唯心論者としてのサルトルの思想的な特徴について、この本はほとんど語るところがない。ただ、晩年のサルトルが、意識の社会的制約を根拠に、無意識的な要素にも着目するようになったと言っているのみである。

サルトルはまた、アンガージュマンで知られる。アンガージュマンとは、政治参加といった意味の言葉である。サルトルほど政治参加に熱心だった哲学者はいない。哲学者という言葉のイメージは、炉辺で思索するデカルトのイメージが物語る通り、政治参加とは無縁と思われてきた。唯一の例外はスピノザだが、スピノザの場合には、ユダヤ人コミュニティからもキリスト教コミュニティからも締め出され、要するに自分を人間扱いしてくれない世界を前にして、自分の存在意義を主張しようとすれば、いきおい政治的にならざるをえなかったという点で、受動的に強いられた政治参加だった。ところがサルトルは自ら進んで政治参加し、それをアンガージュマンと名付け、すべての思索する人間にはアンガージュマンの義務があるというようなことを言った。サルトルを毛嫌いする連中のほとんどは、サルトルのそうした行動スタイルに我慢がならなかったのだ。サルトルが、人間は自由な選択としてアンガジェすべきだと言うたびに、そうした連中は自分の尻に火をつけられた気分になったのだろう。





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