チビの魂、のらもの:徳田秋声の短編小説

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「チビの魂」及び「のらもの」は、いずれも小林政子にインスピレーションを得て書いた短編小説である。「チビの魂」(1935)は、秋声の分身たる主人公と政子の分身たる圭子との同棲生活を描いており、それに人身売買の犠牲となった少女をからませている。「のらもの」(1937)は、政子の若いころのエピソードを描いている。こちらは、つまらぬ同棲をしたおかげで、あたら青春の貴重な時期を台無しにしてしまったというような苦い後悔をテーマにしている。

「チビの魂」は、不幸な少女の不幸な結末を描いているだけに、迫力がある。この少女は、母親とは死に別れ、父親が甲斐性がないために、口入れ屋と称する人身売買業者の手を通じて、あちこちに売られたあげく、主人公たちに引取られてくるのであるが、その少女を貰う気になったのは圭子のほうで、主人公はそれを迷惑とは思わぬまでも、女の道楽に付き合ってやっているといった態度でいる。この少女と圭子とのかかわりあいが小説の主な内容になっているのである。

読んでいてまず感じることは、当時はこの少女のように他人に貰われていく子供がたくさんいたという現実への違和感だ。貰われていくというより、買われるのである。その証拠に、口入れ屋と称する人身売買業者がいて、そいつを介すれば簡単に子供を買うことができ、買った後気に入らなければ、引取ってもらうこともできるようになっている。今時は、犬猫さえも、一たん買ったらその後の責任を持たねばならないが、当時は買った子供が気に入らなくなれば、簡単に引取らせることができたようなのである。ある種の返品可能システムである。もっともそれは、この子供を転売できる可能性がある場合のことで、転売ができないとなれば商品価値がなくなるわけで、その場合には、買い主としてまた引取らねばならなくなるらしい。人身売買業者が最後まで面倒を見るわけではないのである。

この小説の少女の場合、一たんは圭子に気に入られたものの、育ちの悪さかが禍して、やがて愛想をつかされたあげく、家を追い出されてしまう。しかしどこにも行く当てがないので、浮浪児となったあげくに、救世軍の手に渡ってしまうのである。徳田はこの救世軍を毛嫌いしていたようで、「社会生活の根本へ遡ることをしないで、そうした現象に対して到るところの抱え主に個人的な私刑を課するようなもの」といって糾弾している。

という秋声自身、そうした社会生活の根本へ遡る姿勢があるわけではなく、あくまでも傍観者として眺めているだけである。だいいち秋声の分身と思われるこの小説の主人公は、人間の子供を犬猫の子供のようにやり取りする風習に対して一切疑念を呈していない。子供が欲しければ、手軽に手に入るものとして、むしろそうしたシステムを便利なものと考えているフシがある。正式な養子縁組となれば、それなりの社会的責任を負うが、人身売買で手に入れた子供なら、そんな責任を背負いこむこともないというわけだろう。そのあたりは、秋声の酷薄な人格のあらわれなのかもしれない。

この小説に出てくる少女は、自分が売買の対象になっていることを、十歳にして十分理解しており、買い主たる主人公に対しては卑屈に接する一方、自分より立場の弱いものには居丈高にふるまう。弱肉強食の社会に活きるコツを、子供ながらに心得ているのだ。

当時の救世軍の仕事の大部分は、浮浪児の収容だったようである。その収容所を秋声は「児童保護所」と呼んでいるが、それが戦後行政の仕事に移され、「児童養護施設」と名を変えたのであろう。秋声がその救世軍を批判する気持ちからこの小説を書いたのか、あるいは小説の落ちを飾るものとして救世軍の名を使ったのか、その辺の事情はわからない。

「のらもの」のほうは、小林政子の若いころのエピソードを聞き書きしているという体裁であり、秋声自身が当事者として出てくることはない。そういう意味では、私小説ではなく、身辺小説に分類されるものだ。この小説は、芸者をやっていた女が、足を洗った後、同棲していた男が甲斐性がないため、カフェの女給になるところを描いている。当時は、社会現象洋化の動きが風俗産業にも及んできており、カフェのような洋風の風俗営業が盛んになっていた。秋声はそれを面白く思ってとりあげたのであろう。同時代にやはり荷風散人がそうした風俗洋化に並々ならぬ関心を抱き、カフェの女給を主人公にした小説を書いたものだったが、荷風はそうした風潮に対して肯定的だったのに対して、秋声は、否定的とはいえなくとも、あまり同情はしていない。それは次のような文章からもわかる。

「やってみると、古いしきたりがないだけに、何か頼りない感じだったが、あの世界のように、抱え主や、出先のお神、女中といった大姑小姑がいないのは、なるほど新しい職業の自由さに違いないのだが、それだけに今まで一定の軌道の上で仕事をしているものにとっては気骨の折れるところもあった」。つまりカフェの女給のような仕事は、一定の自由があるかわりに、自分を守ってくれるものがあるという安心感がない。たとえば、男と付き合うにしても、談判は自分で直接しなければならず、交際に伴うリスクも自分で背負わねばならぬ、というようなことを秋声は言うのである。その辺は、自由を優先して新たな生き方を選ぶ女の、気概をたたえる荷風散人とは大きな違いである。






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