北一輝の国家社会主義:日本の右翼その七

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北一輝と大川周明は、昭和の右翼運動に思想的な基盤を与えた人物である。二人の年齢は三歳しか違わず、したがってほぼ同年代であり、また、有力な右翼団体「猶存社」の共同メンバーでもある。猶存社は、国内問題においては国家社会主義的な傾向が強く、対外的には大アジア主義を掲げて侵略的な傾向を強くもっていた。北も大川も、その二つの傾向を併せもっていたのであるが、あえて言えば、北は国家社会主義のイデオローグ、大川は大アジア主義のイデオローグと言えるのではないか。

大川の大アジア主義は、石原莞爾のアジア主義に通じるものをもっており、対外侵略の正統性を基礎づけようとするものだった。じっさい、大川が密接にかかわった5.15事件には、石原の影も指摘できる。かれらは、軍部を動かして天皇中心の国家を再編し、その力をもってアジアに雄飛し、出来うればアジアから欧米勢力を駆逐したいと考えていた。石原の「世界最終戦論」は、アジアと欧米とが直接対決し、アジアが世界の覇者になることを夢みたものだが、そのアジアの頂点として日本国家を位置付けていた。

大川に比較して、北は軍部とそんなに密接なつながりはもたなかった。北は2.26事件へのかかわりを云々されることが多いが、彼自身が積極的にかかわったという証拠はない。ただ、軍部内の過激派への影響の大きさを官憲が恐れて、事件を首謀した軍人たちとともに処刑されたというのが真相である。だが、それほど官憲が恐れたということは、かれの思想がそれだけ大きな影響力を持っていたということである。かの岸信介さえも、北の思想にかぶれていたと言われる。

北一輝は、行動的な思想家である。明治三十九年(1906)弱冠二十三歳にして大著「国体論及び純正社会主義論」を書き上げた。これは、日本はすでに憲法上社会主義国家であるにかかわらず、藩閥勢力による天皇大権の私物化や資本家たちの私利私欲の行動によってその本来の姿をゆがめられているのであるから、それをただして本来の姿に戻すべきだと訴えた。その本来の姿にあっては、日本は平等な国民より形成される社会主義国家であり、天皇はその国家の一機関、それも象徴的な意義を持った機関である。これは後の天皇機関説を彷彿させるので、北を天皇機関説の一亜流とする見方があったほどである。

「純正社会主義論」は、官権によって出版禁止処分となった。だが、その存在は一部の右翼指導者たちの間では知られていた。北が、軍部内を含めて広範な影響力を発揮するのは、大正八年(1919)に書き上げた「日本改造法案大綱」を通じてである。これは、日本に社会主義を実現するために、軍部がクーデタによって権力を獲得する必要を説いたもので、権力獲得後に革命政権が実施すべき政策の概要を示したものであった。この政治的なパンフレットは、広範な人びとに受け入れられ、とくに軍部の若手過激派将校たちに甚深な影響を与えた。2.26事件は、北の主張に煽られた若手将校たちが引き起こしたものなのである。もっとも北自身は、かれらの行動に密接なかかわりを持ったわけではない。北は、思想的には人びとを煽ったが、行動の面では自制していたのである。

行動面での北の動きは、中国革命へのかかわりとなって現れた。北は、宮崎滔天と懇意になったことで、中国革命に深くかかわるようになり、「支那革命外史」などの著作もあらわしたのであるが、かれの中国革命へのかかわりには首をかしげるようなところもあり(たとえば孫文に敵対したことなど)、どれほど本気だったか疑わしいところもある。実態としては、中国革命に首を突っ込んで、なにかしらの利益を引き出していたというほうが当たっているかもしれない。そんなことに着目して、北を「大陸浪人」と呼ぶものもある。北は中国に利権を持つ財閥をパトロンとして、かなりな額の金をむしり取っていたらしいのである。日本の右翼は金に敏感だといわれるが、そうした右翼の行動の典型的な姿を北も見せたということではないか。

北の思想は、2.26事件を首謀した軍人たちには多大な影響を及ぼしたが、その事件が失敗に終わったことで、その後思想的な影響力は失ったといえる。じっさい北自身も事件直後に刑死してしまうのである。だが、北が構想した全体主義的な社会主義体制、つまり国家社会主義の理念は、違った形で実現した。2.26事件後に陸軍の実権を握ったいわゆる統制派官僚たちが中心となって、天皇を中心とした国家社会主義的な全体主義国家の形成が進められていくのである。軍事ファッショともいわれるこの全体主義体制には、北の思想を思わせるところはほとんどない。北はたしかに国家社会主義をめざしたが、かれの言うところの社会主義とは、自由な国民による共同体というイメージのものであって、天皇制権力による上からの一方的な支配というイメージとは無縁だったのである。

北の功罪はいろいろな視点から論じられるが、かれの対外政策に着目したものは少ない。北には地についた現実感覚があって、日本の国力では、対米戦争には決して勝てないと考えていた。だから、日本が対中国侵略を進め、それがアメリアとの衝突に発展することを恐れていた。そこが、欧米との世界最終戦争を夢想した石原莞爾などとは違うところだ。石原はただのこけおどしだが、北には腰の据わったところがある。





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