海辺の映画館:大林宜彦の戦争批判映画

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大林宜彦の2020年の映画「海辺の映画館―キネマの玉手箱」は、大林にとって遺作となった作品。大林が最初の商業映画「HOUSEハウス」を作ったのは1977年のことだから、それから40年以上も経っているわけである。その間に作った長編映画の数は44作というから、実に多産な監督だったといえよう。

最後を飾る作品だからというわけでもなかろうが、大林の故郷であり、自身の映画をつうじて強いこだわりを示してきた尾道を舞台にしている。その尾道にあったという映画館を舞台にして、そこで特集上演された戦争映画をつうじて、戦争の意味を考えようという趣向である。大林らしい、ファンタスティックな工夫に満ちていて、単に映画を楽しむばかりでなく、自分自身が映画の世界の中に入り込んでしまったような錯覚を覚える。

大林らしい工夫についてはさておいて、映画のメーンプロットを単純化していうと、連続的に上映される映画の中の世界に、観客が入りこんでしまい、そこでさまざまな冒険を重ねるというような内容である。その冒険は、戦争に巻き込まれることから生じる。その戦争は、幕末の戊辰戦争に始まり、対中戦争を経て、太平洋戦争へといたり、広島に原爆を落される迄をカバーしている。面白いのは、それらの戦争には、戦争を仕掛けた勢力がいるとみることで、多くの日本人は、そうした連中のために犠牲になったというような被害者意識が濃厚なことだ。その仕掛け人として、前半では長州人が、後半では軍閥が名指しされるが、軍閥は長州閥の延長なので、近現代の日本は、その長州閥によって戦争に駆り立てられたということになる。その長州閥の跋扈ぶりを、同じ長州人の中原中也に批判させている。どういうつうもりでそういうことをしたのかわからぬが、この映画を見る限り、中原の存在意義は、同胞の長州人を批判したことに尽きる、というような雰囲気が伝わってくる。

主人公は、十三歳の少女である。その少女は、広島で原爆にさらされ、即死したということになっている。その少女の幽霊が、現代社会にあらわれて、現実に生きている観客たちとともに、映画の中の世界に入り込んでいくというような設定である。その少女が、映画館に現れたのは、映画館の館長であり、また切符売りの老婆となんらかのつながりがあるからということになっている。その映画館というのは、尾道市街の海に面したところに立っている。小生は尾道に旅したとき、映画博物館というところに入ったことがあるが、その建物かもしれないと思いながら見ていた(勘違いかもしれない)。

日本軍の兵士が、日本人市民を虐待するシーンが多く出てくる。そういうシーンを見ると、日本軍というのはならず者の集団という印象を与える。これは、自衛隊関係者はじめ、不快に受け取る人が多いのではないか。





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