赤い天使:増村保造の戦争映画

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増村保造の1966年の映画「赤い天使」は、増村にはめずらしく戦争をテーマにした作品だ。だが単なる戦争映画ではない、主人公を若尾文子演じる看護婦に設定することで、女の視点から見た戦争を描くとともに、その女をめぐる男女の愛を絡ませることで、とかく不毛になりがちが戦争映画に、一定の色気を醸し出している。

見どころは、若尾文子演じる看護婦の生きかたというか、人生に対する覚悟のようなものである。この看護婦は、看護している病人の男達からよってたかってレープされても恨むことをしないし、また、両腕を失って絶望している兵士については、やさしく手当するばかりでなく、セックスの相手までしてやる。とにかく御人好しなのである。しかも彼女は、前線の野戦病院で知り合った軍医(芦田伸介)とねんごろになるのだが、それも芦田の荒々しい要求に応えることから始まったのだ。彼女は、男から言い寄られると、断れない性格として設定されているのだ。

こう言うと、若尾演じる看護婦が、尻癖の悪い女のように受取れるが、しかし、若尾が演じると、それだけでは収まらないものを感じさせる。彼女が自分の体を男に与えるのは、慈悲からであって、決して欲望からではない。ましてや、彼女には自分を奪われたという観念はない。自分の体は、自分一人のものではなく、兵士たちのなぐさめのためにもあるのだと思い込んでいるフシがある。

それでは娼婦と同じではないかと言われそうだが、若尾演じる看護婦は、自分は自分に忠実にふるまっているのであって、決して無理をしているわけではない、というふうに感じさせる。

こんな具合でこの映画は、基本的には若尾演じる看護婦の生き方に焦点をあてているのだが、彼女の目から見た戦争の現実もなかなか迫力がある。映画の描いているのは、中国戦線の末期の状況だと思われるが、その頃には、国民党と共産党が一致協力して対日戦争に立ちあがっており、日本軍は各地で苦戦を強いられていた。そうした苦戦の中にあって、負傷した兵士たちの看護にあたるわけだが、その看護は、傷をいたわることを超えて、性欲を満たすことまで含んでいるというわけである。

この映画における増村の戦争の見方には、かなりなシニシズムを感じる。日本軍がむちゃな戦争をはじめて苦戦しているのは自業自得である、というようなメッセージが伝わってくる。それでも兵士は無論看護婦も、国のために全力を尽くすほかはない。その合間に、男女の愛の営みをなすことにも、自然の摂理を認めるべきではないか。そのように増村が呼びかけているように伝わってくる。






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