中論を読むその十:業と果報との考察

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中論第十七章は、「業と果報との考察」と題して、業とその果報について論じている。業と果報との関係は、原因としての行為とその結果としての報酬との関係のことであり、通常因果関係とか因縁とか呼ばれている。この章は、前半部で説一切有部の「法有」説(実念論)を批判しつつ、後半部で業と果報とはいずれも実在しないという空の思想を展開している。

法有説は、行為そのもの(業)、行為の主体(不失法)、行為の結果(果報)のそれぞれを実在するものとみなし、それら相互の関係について煩瑣な議論を展開している。行為(業)には思業(心の中に思うこと)以下七つの種類があり、果報には五つの欲楽があり、不失法は輪廻の主体として絶えず業を生みださずにはいないといった具合だ。その場合、業が先であって、果報が後である。業と果報との間には時間的な前後関係と論理的な因果関係があって、その二つを輪廻の主体たる不失法が担っている、とするのが法有説の基本的な考え方だ。

それに対してナーガールジュナは、行為も、行為の主体も、行為の結果も、それ自体としては存在しない、つまり無自性であると主張する。

まず、「何故に業は生じないのであるか」と問題を提起する。これについて、「それは本質を持たないもの(無自性)であるからである。また、それが不生であるが故に(生じたものではないから)、滅失することはない」という答えを与える。こう言うと、ナーガールジュナがニヒリズムを説いているように聞こえるが、実はそうではなく、かれが言いたいことは、概念としての業には実在性はないということである。概念は人間の頭が作り出したものであるから、それが存在しているのは人間の頭の中だけである。そういう意味では、夢幻と同じなのであって、あたかも外的な世界に客観的に存在すると考えるのは間違いであると言っているわけである。

要するに業は人間の頭が作り出したものであって、形成されたものである。形成されたものは自性とは言わない。つまり無自性である。このように業(行為)が(それ自体として)存在しないならば、その業を作る者(行為主体)も存在せず、業から生じる果報も存在しないということになる。そして果報が存在しないのであれば、果報を享受する者も存在しないということになる。

では何が存在するのか、という問に対しては、そういう問を立てること事態が的外れであるとナーガールジュナは言う。存在しているように見えるのは、幻のごときものなのだ。その幻のごとき人を変化人とナーガールジュナは呼んでいる。仏は神通力を備えているので、神通で現出された人(変化人)を作り出すのだ。そしてその変化人がまた他の変化人や業を作り出す。作り出された業は、幻の如きものであり、客観的な実在性は持たない。

かくしてこの章は次のような文句で締めくくられる。「もろもろの煩悩も、もろもろの業も、もろもろの身体も、また行為主体(業を作る者)も、果報も、すべては蜃気楼のようなかたちのものであり、陽炎や夢に似ている」

これは、西洋の唯名論によく似ているが、唯名論が概念の実在を否定するのに留まるのに対して、ナーガールジュナの説は、自我を含めたあらゆる存在を人間の頭(心)が作り出した夢の如きものだと断ずる点では、唯心論に似ているといったほうがよいだろう。西洋では、唯名論と唯心論とは相性がよくないのだが、ナーガールジュナにおいては、矛盾なん共存しているようである。





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