清作の妻:増村保造、不幸な女の愛を描く

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増村保造の1965年の映画「清作の妻」は、一人の不幸な女の激しい愛を描いた作品。その不幸な女を若尾文子が演じている。若尾文子が不幸な女の役にはまっていることは、前稿「妻は告白する」評でも延べたとおりだが、この映画の中ではさらに一皮むけて、鬼気迫る演技ぶりを見せている。こんなに不幸な雰囲気をストレートに表現できる女優は、そうざらにいるものではない。

極貧の少女時代に故郷の村を夜逃げし、老人の妾として囲われていた女が、母親の哀願をいれて、故郷に戻ってくる。しかし、村の連中からは徹底的に差別され、村八分の境遇に陥る。そんな折、一人の青年(田村高広)が現れ、二人は急速にひかれあう。その青年は、軍務から戻ってきたばかりで、村人から好かれている。そんな青年が、差別される女にひかれるのを、皆はとめる。だがそれを押し切って青年は女と一緒に暮らす決心をする。女は、生れてはじめて人間として扱われたことがうれしくもあり、その青年に強い恋情を抱く。

そのうち、日露戦争が勃発し、青年は徴兵されて満洲の戦場に駆り出される。そこで負傷した青年は、休養のために郷里へ帰ることを許される。しかし、二人は束の間の逢瀬を楽しむ余裕もなく、青年は再び戦場に赴くことになる。女は、青年が戦死することを恐れ、また、一人にされることが耐え難くて、なんとかして青年をとどまらせる手立てを考える。その結果女が選んだのは、青年の両眼をくぎで潰して、徴兵逃れをさせることだった。

女は当然囂々たる非難の対象になる。村人たちからよってたかってリンチを受けるが、それは村の名誉に泥を塗ったという理由からである。優秀な青年を戦場に送るのは、共同体としての村全体の責任であり、それを邪魔することは、共同体全体に対する犯罪なのだ。その結果女は軍法会議にかけられ、殺人未遂罪で二年間の懲役刑を受ける(これも現代的な法意識からはずれている)。それは、恋しい男のためゆえに何とか受けいれるとしても、当の青年までが、自分の名誉を棄損されたといって女をせめる。女としては、青年の命を守るための選択だったものが、誰からも非難されるのだ。

結局女は二年間の懲役を終えたのち村に戻り、青年から受け入れられる。彼女なりの判断が良い結果につながったのだ。

一応ハッピーエンドの形をとっているが、全体としての印象は非常に暗い。一つは女自身の境遇の悲惨さだ。彼女は金のために妾になり、女としてだけではなく、人間としてもどん底の境遇にある。また、故郷へ戻ったあとは、村人からひどい差別を受け、心無い誹謗中傷にさらされる。また、青年が軍務にいけなくなってからは、村全体から、物理的な迫害を加えられる。村人は、女を責めるだけではなく、青年までせめるのだ。女とぐるになって、兵役逃れをするために狂言を打ったのだろうというのである。

この映画を見てまず感じさせられるのは、そうした村共同体の陰惨な差別である。村としては、村の秩序や名誉を損なうようなことは許せないということなのだろうが、それが、秩序を脅かすものへの度を越えた迫害に発展する。この映画の中の村人たちは、普段はただ酒を飲むことばかり考え、何か変わったことがあると、ヒステリックに騒ぎ立てる。あたかも猿山の猿を見るようである。

この映画はまた、日露戦争への村人の反応を皮肉っぽく描いている。徴兵に協力させられるのは仕方がないとして、戦死したものの家族が路頭にまようのは問題だ。政府は、そうした家族の窮状を支えてくれねば困る。でないと進んで徴兵に協力することはできぬ、とうようなことを公然と言い放つものもいる。要するに、政府の無作には強い反感を示すのである。

そういうわけでこの映画は、日本の戦時体制への強烈な批判という面をもっている。その限りでは、戦争万歳の映画ではない。そういう映画を作ったわけだから、増村が愛国右翼と一線を画していたとはいえそうである。国を醒めた目で見るとともに、伝統的な共同体のあり方にも批判的な目を向けている。この映画を見ていると、日本の伝統的共同体というもののもつ、過酷な面が浮かび上がって見える。日本人は、共同体への帰属意識が弱いと指摘されることがあるが、それは、日本の伝統的な共同体の非人間的な体質への反感が働いているのだと思う。





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