神山征二郎「ふるさと」:人生最後の日々

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神山征二郎の1983年の映画「ふるさと」は、認知症になった老人の人生最後の日々を描いた作品。それにダム建設にともなう「ふるさと」の消失をからませてある。老人にとっては文字どおり人生最後の日々であるが、かれの家族や村落の人々にとっても、ふるさとですごす人生最後の日々というわけである。

舞台は揖斐川最上流の徳山村。そこにダムの建設がすすめられ、住民たちは立ち退きの日を半年後に控えている。そんな中で、加藤嘉演じる老人が、妻が死んだこともあり、認知症が進行して家族を困らせる。家族といっても、息子とその妻だ。孫は岐阜の学校に通うために寄宿している。

老人は認知症が進んではいるが、完全にぼけているわけではない。だから、息子が離れを作ってそこにいられれると、監禁されたような気になる。息子としては、日中夫婦とも働きに出ていて、面倒を見る余裕はない。だから安全のために離れに監禁するしかないと思っているのだ。

鬱々とする老人に気晴らしの機会が生まれる。隣家の少年が是非アマゴの釣り方を教えてくれというのだ。老人は若いころにアマゴ釣りの名人としてならした。その話を聞いた少年が弟子入りさせてほしいと言ってきたのだ。老人はこの少年にアマゴ釣りの術を伝授することを、生きがいとするようになる。生きがいを持った老人は、文字どおり生き生きとして見えるものだ。

付近の沢でアマゴ釣りの練習を重ねたあと、二人は最上流にある長者の淵というところに釣りに出かける。片道二時間歩いてたどり着ける場所だ。美しい自然の中で二人は釣りを始める。山の中にいると、全く寂しさを感じない。自然や生き物の音がたえず語りかけてくるからだと老人はいう。そうして釣りにとりかかり、少年が最初の獲物を釣り上げたときに、老人は心臓発作を起こしてたおれる。少年に言い聞かせて助けを呼び、生きている間に息子らが駆け付けたが、老人は息子に背負われて家に戻る途中、息を引き取るのである。

老人がなくなってすぐ、村の人々は立ち退いて村を出ていく。村を一望できる峠道にさしかかったとき、息子の嫁が老人の遺骨の壺をかざして、これが見納めだからよく見なさいと語り掛ける。

加藤嘉が心憎い演技ぶりをみせてくれる。この時加藤はまだ七十になったばかりだったが、八十過ぎのおいぼれに見える。また、息子(長門裕之)の嫁を演じた樫山文枝が心優しい雰囲気をただよわせて、見るものをほんのりとした気持ちにしてくれる。老人の死に伴う葬儀の場面は、いかにも日本的共同体の親密さを感じさせて、昔の日本人の生きたかの一つの典型について考えさせる。色々な面で、よい映画である。





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