なぜ日本のコロナ対策は失敗を続けるのか

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雑誌「世界」最新号(2023年2月号)のコロナ特集に、日本政府のコロナ対策の失敗を厳しく批判した論文が掲載されている。「なぜ日本のコロナ対策は失敗を続けるのか」と題したこの論文(米村滋人著)は、諸外国と比較しながら日本政府のコロナ対策が失敗した事実を検証したうえで、その原因と今後の対策のあり方についての提言を示している。

まず、事実であるが、これはコロナが流行し始めた2020年を基準にして、その後各国の状況がどのように変化したかを比較分析して、日本のコロナ対策が失敗したと結論付けている。これは意外に見えるかもしれない。なぜなら、日本は欧米と比較して、患者の絶対数も死者数も多いとは言えず、むしろ少ないのであって、それをもって日本のコロナ対策はうまくいっていると見るものもいるからである。

著者は、2020年を基準にして、その一年後及び二年後にどう推移したかを分析する。欧米諸国が感染者数の増大に一定程度歯止めをかけることに成功したのに対して、日本では、すさまじい勢いで感染の拡大を許してしまった。その結果、2020年に比較した2022年の感染者数は100倍以上に増えてしまった。これは隣国の韓国をのぞけば、先進諸国で最悪の数字であり、日本のコロナ対策が失敗したことを物語っている、と著者は結論付ける。絶対数で比較するのではなく、相対的な比率で比較するのは、その比率が各国の学習能力の高さを示しているからである。学習能力の高い国は、対策に成功し、学習能力の低い国は失敗する。日本は学習能力が低かったというわけである。

対策が失敗した理由を著者は三つあげている。第一は、行政の「無謬性神話」。日本の行政は、いったん方向付けをするとなかなか軌道修正がきかない。今回のケースについていえば、当初接触感染を前提にして、緊急事態宣言とか人流抑制に重点を置いた対策(著者はマクロ対策という)をとったが、その後、空気感染が主流になり、それに応じた対策(著者はミクロ対策と呼んでいる)がとられなければならなくなったのに、行政は「無謬神話」にとらわれて、軌道修正することができなかった。それが感染爆発のもっとも大きな原因であると著者はいう。

第二は、感染研による基礎データの誤り。これはコロナ対策に大きな影響力を持つ国立感染症研究所が、世界標準からはずれた見解に固執していたという指摘である。世界標準では、接触感染から空気感染に変化したという捉えかたをしていたのに対して、感染研はあいかわらず接触感染を前提にした対策に固執したというのである。これについては、元鳥取県知事の片山善博氏も、「世界」2022年9月号によせた文章「新型コロナ分科会提出資料から読み取るべき重要な課題」のなかで指摘していたところだ。(参考 https://blog2.hix05.com/2022/08/post-6673.html)

第三は、「専門家」の偏り。これについては、政府の分科会をはじめ、コロナ対策について提言する機関のメンバーが、「感染症専門家」に偏りすぎていると著者は指摘する。コロナ対策は、社会に大きな影響を及ぼすものであるから、公衆衛生の専門家のほかに、様々な分野の研究者が加わって議論することが求められる。感染症専門家に偏った議論は、政策としての合理性や適正性が確保できない可能性が高まる。じっさい日本では、感染の封じ込めを優先するあまりに、ゆがんだ政策がとられたといえる、と著者は批判するのである。

以上を踏まえ、著者は今後の対策を提言するのであるが、それを聞くと、どうも心もとない気にさせられる。政策のコーディネーターたる政府の官僚機構に、柔軟な対応が期待できないと諦念しているからだ。政府側がそんな状態では、国をあげての適正な政策実現は到底期待しようもない。

ところで、著者から厳しく批判された国立感染症研究所の所長が、昨夜のNHKのコロナ報道に登場して、現下のコロナの状況について説明していた。それを聞くと、どうも他人事のような、つまり評論家のような言いぶりに聞こえてきて、当事者としての自覚にかけているのではないかと思わされたところだ。もっともかれは感染症の専門家なのであって、日本のコロナ対策を一人で担っているわけではないから、そのかれにあまりに過大なことを期待するのはフェアではないかもしれない。





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