メルロ=ポンティの感覚論:「知覚の現象学」を読む

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メルロ=ポンティは「知覚の現象学」を、感覚の分析から始める。その感覚をかれは「<感覚>なるもの」と呼んでいる。「感覚」という言葉に疑念を抱いているからだ。「この感覚という概念こそ最も混乱した概念であり、こんな概念を容認したために(知覚に関する)古典的分析は、知覚現象をとらえそこなってしまったのである」(竹内芳郎、小木貞孝訳)といって、メルロ=ポンティは<感覚なるもの>に強い疑念を表するのである。

とはいえそれは、「感覚」についての古典的な考え方に疑問を表しているのであって、感覚そのものを全面否定しているわけではない。感覚についての古典的な考えは、感覚をそれ自体自立したものとして、知性の働きと対立させていた。感覚は純粋印象として、知覚にとっての一次的な材料として与えられ、それを知性が加工することで概念的な認識が生じるという具合に考えられてきた。メルロ=ポンティが拒絶するのはそうした考え方であって、感覚そのものを否定するわけではない。ただ、感覚について別のとらえ方をすべきだと言っているのである。

古典的な考えでは、純粋印象からなる純粋な感覚作用というものがあり、それに対して知性がはたらきかけることによって知覚が生じるということになるが、そういう意味での純粋感覚作用など存在しないとメルロ=ポンィはいう。「純粋感覚作用などというものは、結局は何ものをも感覚しないということであり、したがって全然感覚しないということであろう」。かれがこういう理由は次第に明らかにされるが、とりあえずは、感覚はそれ自体すでに主体の側からの何らかの働きかけを含んでいるということである。感覚と知覚とを別物として扱う理由はない。感覚とは知覚そのものなのだ。この場合の知覚という言葉は、知性が関与しているという意味である。そうした意味での知覚と、感覚とは別次元のものではない。

知覚は、知性の働きかけによって、一定の意味を帯びさせられているわけだが、感覚もまた、すでに意味を帯びている。メルロ=ポンティは感覚の内容を要素的な出来事と呼んだうえで、次のようにいっている。「要素的な出来事もすでに一つの意味を帯びているのであって、高等な機能が果たすところは、ただ、下位の作用を利用し昇華させることによって、より統合された存在形式またはより効果的な順応を実現することだけであろう」。メルロ=ポンティがこういうわけは、たとえば視覚についていえば、なにかを感覚するというのは、地から図を浮かび上がらせるゲシュタルトの働きによるものだということであるが、その詳細については、また別のところで触れることにしよう。

ともあれ、感覚とは、古典的な考え方にいうような、純粋な印象とか、まったく分節されていない裸の出来事とかいったものではなく、すでに意味を帯びたものだというのが、メルロ=ポンティの感覚についての基本的な考えである。そこで古典的な考え方について、もうすこし踏み込んでみよう。メルロ=ポンティは、その古典的な考えを、経験論と主知主義によって代表させている。経験論は感覚を外的自然によって基礎づける立場であり、主知主義はもっぱら知性の働きを重視する。その点では真逆に見えるが、感覚のとらえ方においては、似たもの同士だというのがメルロ=ポンティの見立てである。どちらも、感覚を知覚にとっての一次的な材料としてとらえ、それ自体は何らの意味をも帯びていないとする。そこをメルロ=ポンティは批判するのである。感覚はすでにそれ自体に意味を帯びたものである、というのが、メルロ=ポンティは繰り返し強調するところなのである。

経験論と主知主義との違いについて、ここでは非常に図式的に整理してみたが、「知覚の現象学」のテクスト本文はもっと丁寧に説明している。経験論は主に連合について、主知主義は主に注意をめぐって、それぞれ感覚と概念との相互的な関連を明らかにしようと努めている。それはそれで興味をさそる議論ではあるが、ここでは割愛して先に進む。

ともあれメルロ=ポンティにとって、感覚とは意味を帯びたものだ。具体的にいうと、われわれが何ものかを感覚するとき、それは或る対象を、地から図が浮かび上がるようにとらえることを意味する。地から図が浮かび上がるのは、われわれがそれに向けてまなざしとか注意を向けるからである。それをメルロ=ポンティは主体の志向性(指向性)と呼んでいるが、志向性とは意味を付与する働きなのである。

志向性が向き合う地と図の全体をひっくるてメルロ=ポンティは「現象野」と呼ぶ。現象野とはだから、感覚の舞台となるところである。その舞台において、地から図が浮かび上がる。その浮かび上がってきたそれぞれが感覚の内容となる。対象ではなく、内容である。対象というと、主体との関係において外在性が介在してくるが、内容といえば、感覚そのものが主体の内容ということになる。

現象野というと、主観の内面を想起させるが、それは違うとメルロ=ポンティはいう。「現象野とは、一つの<内面的世界>のことではないし、<現象>とは一つの<意識状態>、ないしは一つの<心的事実>なぞではなく、また諸現象の経験も、一つの内観またはベルグソン的意味での直感なぞではない」。では何ものか。それは主体が世界と出会うときに成立するものであり、したがって主体と世界とをともに含みこんだものだ。その世界には他者も含まれる。他者を含んだ世界と主体とが出会うその接面が、主体の意識にとりあえずは現象野という形であらわれるのである。だからそれは主体の世界へのかかわりを前提とする。主体が世界にかかわろうとするのは、主体が事実上世界のなかに住み込んでいるからだ。主体が世界に住み込んだことは、一つの偶然である。なぜなら、主体が世界に現れたことに理由などないからだ。理由はないが、この世界に生まれたからには、それにかかわらざるをえないのは必然のことである。そういう主体の生の在り方を、メルロ=ポンティは「実存」と呼ぶ。







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