加藤周一の武士道論:「日本文学史序説」から

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武士道という言葉を流行らせたのは新渡戸稲造だが、それ以前に「葉隠」の著者が武士道という言葉を使っていた。「葉隠」の著者山本常朝は佐賀鍋島藩の藩士だった。かれが「葉隠」を口述筆記させたのは元禄時代直後のことだ。その時代には、武士はすでに闘いに無縁な存在だった。武士が戦いに無縁な存在になった時代にはじめて武士道という言葉が前面に出てきたわけである。それ以前には、武芸という言葉はあったが、武士道とか武道という言葉は使わなかった。荻生徂徠は、「文道武道と申事は無之候」と書いた(太平策)。

徂徠が武芸といったものを体現していたのは、戦国時代から間もない徳川時代初期の武士までである。宮本武蔵とか禅僧沢庵といった人が、そうした武士の気風をまだ失わないでいた。武蔵は有名な「五輪書」を、沢庵は「不動智神妙録」を書いた。どちらも、闘いの実践について述べたものである。沢庵は武士の戦いの極意は禅の境地に通じると書き、武蔵は六十回以上にのぼった自らの実戦体験について飾らずに書いている。彼らは自らの真剣勝負の体験を語ったのであり、彼らの読者もまた真剣勝負の経験を多かれ少なかれもっていたと思われる。

それに対して、約一世紀後の山本常朝には、武士として真剣勝負をした経験はない。かれは戦士ではなく、鍋島藩の行政官僚である。その行政官僚である山本が、なぜ武士道にこだわるようなことを語ったか。実は山本が語っているのは、戦士としての武士の心得ではなく、官僚つまり勤め人としての心得なのである。今でいえば、「サラリーマン出世心得」のようなものである。だが、それを露骨にいったのでは、あまりにもみっともない。そこで武士道という大げさな言葉を持ち出して、自らの官僚としての生き方を理想化したのだと思われる。

「葉隠」を一読すれば、そこに書かれていることが、武士道という言葉とはうらはらに、官僚としての成功に重点をおいたものだということがすぐにわかる。「葉隠」の有名な言葉に「武士道とは命を捨てることとみつけたり」というのがあるが、それは命をかけて真剣勝負をすべきだという意味ではなく、命がけで出世競争に励むべきだという意味である。この本は全編が、どうすれば官僚として成功し、出世階段をのぼることができるか、そうしたきわめて機会主義的な発想に満ちている。

こうした山本の武士道観は、二重に欺瞞に満ちている、と加藤は受け止めているようである。山本は武士道というものを、非常に理想化しているが、現実の武士たちは、義理や道義ではなく、利己的な動機に従って行動していた。自分の利益のためには裏切りもいとわなかった。むしろ裏切りは武士の日常の行動だったのであった。そう加藤はいって、山本が武士の行動を本当に理解していたら、「武士道とは裏切りとみつけたり」言ったはずだと皮肉っている。また、武士道がいなかる内容を持つかは別にして、武士本来の使命を失った当時の武士に、武士道を云々する資格はなかったはずだ。にもかかわらず、ことさらに武士道という言葉をふりまわすのは、武士として役に立たなくなった武士階級の照れ隠しのようなものだ、そうも加藤は言いたいようなのである。

以上を踏まえて加藤は、「侍が戦っていた時には『武士道』はなかった。侍がもはや戦う必要がなくなってはじめて、『武士道』がうまれたのである」と書いている。

「葉隠」を三島由紀夫が高く評価したことはよく知られている。三島の「葉隠」の読み方には偏りがあるのだが、かれの「葉隠」理解の眼目は、主人のために死ぬことを最高の理想とすることから、死そのものを賛美するにいたるということである。そのあげくに、目的のない無意味な死さえもが賛美された。そうした死への賛美に三島は共感したのだと思う。三島の面白いところは、自分自身そうした無意味な死を実行したということである。しかし、冷静に考えてみれば、三島の死が山本常朝の論に促されたのだとしたら、かれはじつにつまらぬ動機から自分を殺したということになる。三島は死に美学を見出したのだろうが、皮肉なことに山本常朝自身は、死は崇高ではあるが、美しいとはいっていない。やむにやまれぬものだといいたいのであろう。

ともあれ加藤は、「葉隠」を「偉大な時代錯誤の記念碑であった」と言っている。なぜ偉大かというと、「私を捨てて一味同心となることを強調し、自己の所属する特殊な集団そのものを価値として、その他のいかなる普遍的な価値(儒・仏・神)もその集団に超越しないとしたからであり、その意味では、まさに典型的に日本の土着思想を代表していたからである」。つまり、「葉隠」は日本の土着思想が典型的な形で現れたということである。三島が「葉隠」に共感したのは、彼自身が日本の土着思想の体現者であり、「葉隠」のなかに自分によく似たものを認めたからなのだろう。






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