大塩平八郎と農民一揆:加藤周一「日本文学史序説」

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大塩平八郎は、とかく孤立した思想家であり、かれの企てた反乱は無謀な暴発のように考えられている。かれの独特な世界観つまり陽明学的な思想がかれを駆り立て、反乱を起こさせるにいたったというのが、普通の見方であろう。じっさい、大塩の行動は衝動的であり、社会的な背景とはあまりつながりを持たなかったというのが、大方の見方であった。森鴎外の小説「大塩平八郎」は、そうした見方から書かれたものである。鴎外描く大塩中斎は、己の信念に従って行動する、基本的には孤独な人間であり、その信念の内実は、言ってみれば男の意地であった。晩年の鴎外は、男の意地をテーマにした小説を書き続けたのであったが、「大塩平八郎」もまたその一つの試みだったといえる。

加藤周一は、そんな大塩平八郎像に大きな修正を加えた。加藤は大塩を単なる思想家としてではなく、実践的な行動家として見直す。大塩の起こした反乱は、その陽明学的な思想に駆られたというよりも、もともとかれの中にあった実践的な問題意識が爆発したものであり、陽明学的な思想は、その実践的な問題意識を合理化するためのものであった。そして大塩が起こした反乱は、かれが直面した社会の矛盾に対するかれなりの解決策の提示であった、というのである。

大塩が直面した社会の矛盾とは、とりあえずは天保大飢饉に発した農村・都市住民の困窮であった。天保大飢饉は、天保四年(1833)に始まり、天保七年(1836)からその翌年にピークに達した。困窮した農民は各地で大規模な一揆をおこし、都市住民は打ちこわしに加わった。大塩の起こした反乱は、そうした庶民の動きに呼応したものだったというのが加藤の見立てである。

大塩は飢饉の状況に大いに注目していたようだ。その飢饉の影響が大阪にも及び、市中に多数の餓死者が出るのを見ると、大塩は町奉行に米価の調整や官米の放出を求めた。自身五万巻の蔵書を売って、貧民救済にあてもした。だが、官が動かず、富裕な商人が暴利をむさぼるのを見て、ついに反乱を起こすにいたった。それは衝動的というよりは、やむにやまれぬ選択だっというのが、加藤の推測である。大塩は当初から武力蜂起を考えていたようである。その証拠に、天保七年秋に三河の農民が打ちこわしに動いたときに、自宅で砲術の練習を始めたという。

農民や町人が一揆・打ちこわしの挙に出た背景には、おかげ参りの流行があったと加藤は考えている。おかげ参りは、徳川時代を通じて、数十年周期で間歇的に起こっていたが、文政十二年(1830)には、数百万人を動員する大規模なものがおこった。おかげ参りは民衆のエネルギーを集約的に動員するもので、そこから民衆にある種の連帯感のようなものを育む土壌が生まれたと考えられる。その土壌が、一揆や打ちこわしを育んだということはあると思う。

大塩が反乱を企てたことの背景には、そうした時代の状況が強く働いていたと考えられるのである。大塩は反乱にあたって檄文を書いている。それを読むと、各地の一揆における檄文と共通するところが見えてくる。檄文は役人および金持の不義を糾弾したうえで、金持から奪った金銀と米俵を貧民に配当し、将来的には、年貢諸役を軽減し、質素な世の中を実現することを訴える。しかして、「天命を奉じ、天罰を致し候」の一句で結んでいる。これは、直前におきた三河加茂郡の一揆の檄文とほぼ同じ趣旨のものであるという。

反乱自体は、裏切りがあったりして、あっけなく鎮圧されたが、その影響は大きかった。大塩の著作「洗心洞箚記」は、吉田松陰や西郷隆盛が愛読したといわれるように、幕末の志士にとっての思想的なよりどころを提供したし、また、民衆の動きに目を開かせることにもなった。民衆の怒りが世の中を変える力をもつという認識は、それまでもなわけではなかったが、天保時代における一連の民衆運動が社会改革にとって民衆の果たす役割に大きな注目をあつめさせたのは間違いない。大塩の反乱は、そうした動きを象徴するものと見なされたのである。

渡辺崋山らをまきこんだ「蛮社の獄」事件が起こったのは、大塩の乱の二年後のことである。この二つの事件には、一見共通する点は見出されないが、しかし幕藩体制の綻びがやっと可視化されるようになったいう点では共通するものがある。一方は反乱であり、他方は反幕府的とみなされたサークルへの弾圧であったが、幕府が統治の綻びを恐れて過剰に反応したという点は似ている。

なお、大塩平八郎の思想の内実につては、それが陽明学的な知行一致の説であることを指摘する以外に、加藤は特に立ち入った議論はしていない。ただ、それが陽明学であることを指摘する点では、明治以降陽明学が国家主義を支えるイデオロギーになったことへの皮肉を感じさせる。権力への反逆者である大塩平八郎の奉じていた陽明学が、維新以降は、権力によって都合よく利用されたわけである。いずれにしても、大塩平八郎が、幕藩体制の終わりの始まりを象徴する人物とは言えそうである。






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