相米慎二「お引越し」:思春期前期の少女の悩み

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相米慎二の1993年の映画「お引越し」は、思春期前期の少女の悩みを描いた作品。小学校六年生の少女レン子が主人公。両親の仲が悪く、離婚話に発展したあげくに、別居を始めた。レン子は、父親が大好きだ。無論母親も愛している。だから親子三人仲良く暮らしたいと願っている。そこで両親を仲直りさせようとしていろいろ智慧を絞るが、なかなかうまく行かなくて悩む、というような内容だ。

小学校六年生といえば、思春期が始まるころの年齢だが、実際には子どものままであり、自分をとりまく環境にどう適応していいかわからない部分が多い。だがわからないままに、自我は強くなっているから、自分が周囲に適応するよりも、周囲を自分に適応させようとする。いわゆる反抗期とは、そうしたものだ。反抗は自立しつつある自我の働きだが、反抗する対象についての理性的な認識が足りないところから、行き当たりばったりなものになりやすい。

この映画の主人公であるレン子は、普通の子供に比べれば大人びたところはあるが、所詮は子供である。合理的な行動ができない。そこで手荒い実力行動に出たりする。部屋に閉じこもったり、家出めいたことをするなどである。同級生の男子に仲のよいのがいて、いろいろと智慧を授けてくれる。だがその少年だって、世の中のことがわかっているわけではないので、突拍子もないことを思いつくだけである。

そんなわけで、この映画には大した筋書きがあるわけではなく、ただただ、もとの仲のよい家族に戻ってほしいという少女の願いが空回りするといった具合に映画は展開していく。少女が繰り出す様々な作戦はどれも実ることなく、両親は結局離婚することになる。その場に至って少女は、厳しい現実に気づき、現実と和解するほか生きていく道はないとさとるのだ。

この映画は、一つには少女の思春期を少女の視点から描いていると言えるが、もう一つのテーマが自ずから浮かび上がるように作られている。それは、子どものためにも、夫婦は簡単に離婚するべきではないというメッセージが含まれていることだ。この映画には、家族は守られねばならぬという日本独特の価値観が指摘できるのである。この映画の中では、家族を解体させた責任は母親のほうにあると感じさせるようになっている。母親は、自分で仕事を持ったことで自立心を持つようになり、それが夫への反抗につながったのだというような筋書きになっている。こういう設定は、いまでは総スカンをくらうだろう。

統一教会の集団結婚に加わったことで世間をにぎわせた桜田淳子が、母親を演じている。彼女が集団結婚に加わったのは1992年のことで、この映画はその翌年に公開されている。これが彼女にとって最後の芸能活動になったわけで、そんな彼女を世間は猟奇的な目で見たものだ。だが、彼女が集団結婚に加わったのは、三十五歳頃のことで、女性としての生き方に責任を持てる年齢だったはずだ。だから、世間が彼女を子ども扱いして、何やら説教めいたことを叫びたてたのは、大人げない反応だったといえるのではないか。







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