「貧しき人びと」のロシア文学談義

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「貧しき人びと」には、ジェーヴシキンとワルワーラがロシア文学について談義する場面がある。これは、ドストエフスキーが小説中の登場人物を借りて、自分自身のロシア文学論を展開したものとする見方もあるが、その部分を読んですぐわかるとおり、ドストエフスキー自身の文学観とは全く関係ないといってよい。そうではなく、これはジェーヴシキンの被害妄想の一例として扱われているのである。

かれらがロシア文学について手紙を通じて語り合うには、それなりの背景が設定されている。ワルワーラは、少女時代にポクロフスキーという青年から文学熱を吹き込まれていた。彼女はその青年を、少女心なりに愛してしまったようで、彼の誕生日祝いとしてプーシキン全集を贈ろうと考えたほどだった。彼女自身もプーシキンを愛読していたように書かれている。一方ジェーヴシキンのほうは、たまたま仲良くなったラタジャーエフという男が作家だったことで、そのラタジャーエフの小説を義理で読んだくらいで、ロシア文学そのものに関心があるわけではない。

かれらの文学談義は、ジェーヴシキンがワルワーラに当てた手紙の中で、友人ラタジャーエフの小説について言及したことから始まる。それを読んだワルワーラが、そんなつまらないものを読んでいないで、もっとましなものを読みなさいとばかりに、プーシキンの「ベールキン物語」を贈り届けるところから、彼らの文学談義が本格化する。その文学談義というのは、ジェーヴシキンが一方的に自身の読後感を披露するという形をとるのであるが、その読後感というのが、小説そのものについての感想というより、小説から自分が受けた衝撃といったものなのである。その衝撃が、被害妄想につながるのだ。

ジェーヴシキンは「ベールキン物語」の中の「駅長」という短編小説からいたく感銘を受けたと言う。この小説は、地方で駅馬車の駅長をしている老人が、たまたま駅に立ち寄った男に、一人娘を拉致されるという筋書きなのだが、その老人にジェーヴシキンは自分自身を重ね合わせ、その老人が一人娘を奪われたように、自分も愛するワルワーラを奪われるのではないかと、心配するのである。その心配には、全く理由がないとはいえないが、しかしあまり現実味はないので、被害妄想の類と言ってよい。

ジェーヴシキンは次に、ゴーゴリの小説「外套」についての感想を書き送る。それは「駅長」の場合よりはるかに被害妄想を感じさせるものだ。「外套」の筋書きはよく知られているので、詳しくは言わないが、ジェーヴシキンはこの小説の哀れな主人公アカーキイ・アカーキエヴィチに自分自身を重ねあわせ、アカーキイ・アカーキエヴィチが蒙った理不尽な仕打ちに強い怒りをおぼえるのである。その怒りは、次のような文章から伝わってくる。「しっかりした理由もないのに、何気なく、こちらの鼻先で、だれかが自分をたねに悪口をいったら、どうします? そりゃ、何か新調でもしたときには、ほんとにうれしくなって、夜も眠らずに、よろこぶものですよ。たとえば新調の靴なんか、有頂天になってはいてみるものですがね。これは本当のことです。わたしだって実感しました。ぴったりした洒落靴をはいた足はわれながら見た目に気持ちがよいものですからね。これはたしかによく書いてありますよ! そうはいうものの、フョードル・フョードロヴィチともあろう人が、こんな本を見逃しておいて、自己弁明ひとつしないのにわたしはびっくりしています」(木村浩訳)。

つまり、ジェーヴシキンは、外套の主人公アカーキイ・アカーケエヴィチに自分自身を同一視させ、アカーキイ・アカーキエヴィチの被った理不尽な仕打ちを、自分自身への侮辱として捉えているわけである。その侮辱への怒りは、おそらくかれを逆上させたのであろう、アカーキイ・アカーキエヴィチとフョードル・フョードロヴィチとを混同する始末である。その挙句に次のように叫ぶのだ。「いったい何のためにこんなものを書くのでしょうか? こんなことがなんの必要があるのです? 読者の誰かが代わりにこのわたしの外套を作ってくれるとでもいうのですか? 新しい靴を買ってくれるとでもいうのですか?」

こうしたジェーヴシキンの被害妄想を、ワルワーラのほうでは冷静に見ていて、たとえばかれの別の妄想について、次のように書いて諭すのだ。「あなたはみなに嘲笑されているとか、みながあたくしたちの関係を知ってしまったとか、同宿の方たちがあたくしを笑い種にしているとかおっしゃっています。マカールさん、そんなことはお気にかけないでください。後生ですから、お気を沈めてください」。

もっともワルワーラは、ジェーヴシキンの苦境をよく理解しているので、次のように書いて、かれを慰めることを忘れない。「ああ、あたくしの大切な方! 不幸は伝染病のようなものですわね。不幸な者や貧しい人たちはお互いに避けあって、もうこれ以上伝染させないようにしなければなりません」。

ドストエフスキーが、この小説の中にロシア文学談義を持ちこんだのは、一義的には、ジェーヴシキンの被害妄想を強調するためだったといえようが、ジェーヴシキンとワルワーラの不幸な関係を際立たせるという意図もあったのであろう。じっさい、「駅長」では哀れな老人が娘を永遠に奪われたのであるが、それと同じように、ジェーヴシキンも愛するワルワーラを永遠に失なってしまうのだ。愛するものを失う悲しさを、ドストエフスキーほど切々と描写した作家はそれほどはいない。後にソルジェニーツィンが、「ガン病棟」の中で、愛する女を永遠に失なったことへの嘆きを、心底から絞り出すように表現するシーンがあるくらいである。






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