「二重人格」におけるドストエフスキーの語り口

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近代小説の最大の特徴は客観描写ということにある。小説には語り手がいて全体の進行役を務める。語り手は主人公たちを俯瞰する一段高いところに位置していて、そこから登場人物を第三者の目で眺め、登場人物の心理に立ち入る場合でも、あくまでも客観的な視点から描写する。そこでは内面は外面を通じて現れるのである。だから、主人公が多少エクセントリックであって、読者が感情移入できないような場合でも、語り手が間に入ってその隙間を埋めてくれる。だから読者は、自分自身第三者の立場から小説の進行に立ち会いながら、しかも登場人物たちの内面に触れることもできるのである。

ところがドストエフスキーは、処女作の「貧しき人びと」を、二人の人物の往復書簡という形で構成した。そこには語り手はいない。読者は何らの前置きもなく、突然二人の人間の書いた書簡を突き付けられる。それについて何らの説明もないため、たまたま手にした書類を読んでいるような気になる。その書類がどのようないきさつで書かれたのかとか、その書類を書いた人物がどんな人なのか、われわれ読者は、その書類を読むことで理解せねばならない。こういうスタイルは、近代小説の常識から大きくはずれたことであって、ドストエフスキーがいかに特異な作家だっかた、ということを考えさせるところだ。

ドストエフスキーがこの小説「二重人格」に語り手を導入したについては、それなりの理由が考えられる。ドストエフスキーはこの小説の主人公たるゴリャートキンを、狂人として設定したのであったが、狂人が主人公では、かれの独白を中心に小説を組み立てては、わけのわからないものになってしまう。じっさいこの小説の中でのゴリャートキンはのべつまくなくわけのわからぬことを言っているのであって、かれの言葉をまともに受け止めているだけでは、われわれ読者はいったいどんなことが、どんないきさつで起きているのかわからなくなってしまうのである。だからこの小説には、全体の進行役としての語り手が必要になったわけで、その必要性はゴリャートキンという特異な人物を主人公に設定したことによる、不可避の選択だったと思われるのである。

「貧しき人びと」の主人公ジェーヴシキンにも頭のいかれたところがあって、かれもまた狂人に近い精神状態なのだが、かれがワルワーラに向かって書いた手紙は一応筋が通っているし、また人間的な感情も感じさせので、われわれ読者は彼とワルワーラが相互に交わした手紙のやりとりを通じて、小説の進行についての明確な観念をもつことができる。それに反してこの小説の主人公ゴリャートキンには、そういった期待は持てない。かれの頭は完全にいかれてしまっているので、かれの独白からは、読者は何ら明確な観念を結ぶことができないのである。だからどうしても第三者としての語り手が必要になる。ドストエフスキーとしては、語り手の存在なくしても、この小説を構成するのはそれほど困難ではなかったかもしれない。語り手の代わりに別の人物に主人公を観察させるなど、事態の客観的な把握にふさわしい方法はいくらでもあるからだ。それゆえドストエフスキーがこの小説に語り手を持ち込んだことについては、ドストエフスキーなりの魂胆が働いていたと考えれられる。

その魂胆を明らかにするのは、ちょっとむつかしいかもしれない。というのは、この小説の中の語り手は、客観的な視点という点では中途半端だからである。小説の外から事態の進行を見ているというよりは、小説の中にいながら、事態の進行に付き合っているといったふりをしているのである。この語り手はだから、純粋な語り手ではなく、主人公の影のようなものなのだ。そういう中途半端な性格をもっているために、この小説の語り手を、近代文学における普通の語り手と同一視するわけにはいかない。

ドストエフスキーはおそらく、「貧しき人びと」と同様に、なるべく小説の登場人物に語らせながら、それでは足りない部分を語り手に埋め合わせさせたのではないか。その場合、近代小説の伝統にしたがって、小説の外部からそれを俯瞰するというような役割はもたせず、小説の内部におりながら、時折口をはさむというやり方で、小説の進行具合を読者にわからせるように図ったのではないか。

じっさいこの小説の中の語り手は、ゴリャートキンの代理人のような顔をして語っているように見える。かれはあくまでも、ゴリャートキンのために、ゴリャートキンに代わって語っているのであって、第三者として語っているわけではないのである。

たとえば次のような場面描写がある。「『おや、この男は鬘をかぶっているな』とゴリャートキン氏は考えた。『もしあの鬘をぬがせようもんならおれの手の平とちっともちがわないつるつるの禿頭が現れるに相違ないぞ』こんな重大な発見をするとゴリャートキン氏は、ふとアラビアの酋長たちのことを思い出した。預言者マホメットとの血縁関係を示すためにかぶっている緑色のターバンを脱がせたら、中身は御同様毛の一本も生えていないつるつるの禿頭なのだ」。これは、ゴリャートキンが身分の高い上官の家で騒ぎを引き起こしたときのゴリャートキンの精神状態を補足説明したものだ。ゴリャートキンだけに語らしていたのでは、かれが禿頭のことを考えていたことはわかるが、それが狂気から発した妄想だということまでは、なかなかわからない。そのわからないところを、語り手がゴリャートキンに代わって説明してくれているのである。

この小説はドストエフスキーとしては二作目にあたるが、後のかれの小説手法を先取りしているところがある。ドストエフスキーの最大の特徴は、登場人物たちに勝手なことを言わせながら、その言い分が互いにこだましあって、全体としては不思議な調和を醸し出すということにある。そうした語りのスタイルをバフチンは「ポリフォニー」と呼んだわけだが、そのポリフォニーの原初的な形がこの小説に認められるのである。

なお、ゴリャートキンには「裸ん坊」という意味がある。だがゴリャートキンの意識は常に濁っているので、彼本来の裸の自分をさらすことはないのである。





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