眼と精神:メルロ=ポンティの絵画論

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「眼と精神」所収の同名の論文は、メルロ=ポンティの存命中に刊行された最後のものである。これを彼が脱稿したのは1960年8月、その翌年5月に死んだわけだから、いわば遺書のようなものである。これを書いた時期の前後に、かれは、死後「見えるものと見えないもの」と題して刊行された大著を執筆中であった。この大著は結局未完成に終わったが、残された遺稿からは、自然と人間のかかわりあいをテーマにしたものであること、タイトルにあるとおり、見えるものと見えないものとの相互関係を掘り下げて論じたものだということが分かっている。「眼と精神」と題するこの論文も、見えるものと見えないものとの深い関連について論じているから、かれの最晩年の問題意識が集中的に考えられたものだということができよう。

表向きのテーマは絵画論、とくにセザンヌの絵画についての考察である。メルロ=ポンティはセザンヌの絵画論について非常なこだわりをもっており、すでに「知覚の現象学」において、身体と精神との一体性という文脈でたびたび言及していた。また「シーニュ」には、セザンヌを主題的に論じた文章を収めてもいた。その趣旨は、絵というものは、見えるものと見えないものとを同一の平面上にトータルに表現するということであった。とりわけ、奥行きというものの持つ逆説的な意義について深い考察をしているとして、メルロ=ポンティはセザンヌを思想上の同士のように処遇しているのである。

「眼と精神」と題したこの論文においては、「知覚の現象学」や「シーニュ」での論旨を踏まえながら、セザンヌが絵画の表現をどのように捉えていたかについて深い議論を展開している。ここでも奥行きの表現が手がかりにされる。奥行きというものは、実際には肉眼で見えるものではない。奥行きとしてとらえられているのは、実は二つのもの(手前にあるものとそれに隠された形で奥にあるもの)の間の位置関係を、横から見たもの、つまり幅として捉えたものである。その幅は、通常の肉眼による視点からは見えない。それが見えるように感じるのは、頭の中で、横の幅を縦の奥行きに構成しなおすことによる。つまり奥行きは、肉眼によって直接感知されるのではなく、精神による構成の働きの作用した結果なのである。そういうことが起きるのは、人間が神としてふるまっているからだとセザンヌは言い、それにメルロ=ポンティも同意している。

神には、ただ一つの点としての中心はなく、したがって周縁もない。いたるところが中心である。そういう視点からならば、本来横から見た幅も、縦方向から見た奥行きにたやすく転換される。その転換は、実は知性の働きによるものだが、普通の人間はそれを、知性によらず直接肉眼で見ていると錯覚するのである。

ところが人間は神ではないから、自分自身を基準にして世界を捉えるほかはない。その場合の自分自身とは、精神と一体となった肉体、肉体に宿った精神としての在り方である。つまり人間は、世界に住み着いている限り、自分を基準点にして、そこから世界を把握するほかはない。そんな人間にとって、奥行きを幅のようなものに転換する必要はまったくない。奥行きを幅に転換するためには、見えているものを見えていないものへと統合する必要がある。だがその必要性は、神の視点を保とうとすることから生じるのであって、人間としての立場からならば、なにもそんなことをする必要はなく、見えているとおりに対象を捉えればよいことになる。だからセザンヌは対象を、自分の肉眼で見えるままに、直接表現するのだ。そのために、彼の絵では、複数の視点から見た対象のイメージが、同じ画面上に共存することになるのである。普通の人は、写真に映ったイメージこそが対象の忠実な再現であり、セザンヌの静物画のように、対象をデフォルメしたようた構図は、現実から遊離していると考えるが、実はそうではなく、人間は神ではないからこそ、対象をセザンヌの絵のように感知するというのである。

セザンヌを評価する一方で、デカルトに対しては厳しい評価を、メルロ=ポンティは行っている。デカルトが空間の特性をシビアに考察したことはよく知られており、そんなデカルトを世間では、「空間を解放した」などと言ってほめたたえている。メルロ=ポンティとしては、「デカルトが空間を解放したと言うのは正しい」といいながら、次のようにも言うのである。「しかし、彼がこの空間を、一切の<観点>、一切の<隠蔽性>、一切の<奥行>を超え、本当の<厚み>というものをまったくもたない肯定的存在者にしてしまったその点で、彼は誤っていたのだ」(滝浦静雄、木田元訳)と。つまり、デカルトは人間を神の位置に高めてしまったために、対象が持っている存在の<厚み>を取り逃がしてしまったというわけである。

というわけで、「おそらく今や、<見る>というこの小さな語の担うすべてが、以前よりいっそうわかるようになったであろう」とメルロ=ポンティは言うのだ。「視覚は思考の一様態とか自己への現前ではない。それは、私が私自身から不在となり、存在の裂開~私が私自身に閉じこもるのは、その極限においてでしかないのだ~に内側から立ち会うために贈られた手段なのである」。だからこそメルロ=ポンティは、「眼は『心の窓』と考えられるべきである」と言うことができるのだ。それにしてもこの表現はかなりわかりにくい。こうした韜晦に耽るような表現の仕方は、メルロ=ポンティには若い頃からあって、それが晩年になるといっそう強まったということだろう。末尾近くにある、次のような締めくくりの文章には、そういった韜晦趣味が極端なかたちで現れているといえる。

「およそ目に見える一つ一つの物、目に見える物としてのすべての個体は、次元としてもまた機能する。それらは存在の裂開の結果として与えられているからである。と言うことは結局、<見えるもの>の特性は、厳密な意味では<見えない>裏面、つまりそれが或る種の不在として現前させる裏面を持っていることだ、ということを意味する」。これは厳密であろうとするあまり、難解な表現をとらざるを得なかったということなのか、それとも、哲学的にふるまうとういうのは、かならずしも論理的である努力とは無縁だ、ということなのか。






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