アイザック・ドイッチャーのイスラエル国家論

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ユダヤ人によるイスラエル国家の建設について、アイザック・ドイッチャーは両義的な感情を抱いていた。一方では、ホロコーストによって痛めつけられたユダヤ人が、民族としての安全の保障をイスラエル国家の中に求めるのは止めがたいことだとしつつ、他方では、そのためにユダヤ人がパレスチナ人を迫害することは許されないと考えたわけである。また、ドイッチャーはそもそも民族国家という考えには否定的であり、世界はゆくゆく民族の対立を乗り越えて、人類が一つにまとまるべきだと夢想していた。そんなかれにとって、ユダヤ人がイスラエル国家を建設し、それにしがみつくのは時代錯誤だと考えたのである。とはいえドイッチャーは、ユダヤ人によるイスラエル国家の建設を既成事実として前提したうえで、それの持つ様々な問題について冷静な分析に努めている。「非ユダヤ的ユダヤ人」の後半は、イスラエル国家について、色々な角度から論じた文章からなる。

イスラエル国家を樹立したのは東欧のユダヤ人たちである。とくにロシアとポーランドのユダヤ人が主導的な役割を果たした。かれらは、東欧社会の激しいポグロムを体験し、そこから強烈な民族意識を抱くようになり、それがシオニズムを育んだ。ベン・グリオンはじめ、イスラエル建国の指導者は、ロシアやポーランド出身のシオニストだったのである。したがってイスラエル国家は、強烈な民族意識を持ち、その民族意識が選民思想と結びついて、パレスチナ人への迫害を合理化した。だがそれは、イスラエル国家が周囲の国からつまはじきされる原因を自ら作ることであり、長い目で見てイスラエル国家のために望ましいことではない。ユダヤ人は、孤立と対立の道を選ぶべきではなく、共存と平和の道を選ぶべきだとドイッチャーは考えるのである。

ドイッチャーは、世界中のユダヤ人をいくつかの集団に分類している。基本的な分類は、欧州系と東方系への分類であり、欧州系の内部では西欧系と東欧系への下位分類である。東方系は欧州系に比べて貧困でありかつ教育程度が低く、ユダヤ人社会では最底辺に位置づけられる。欧州系のうち西欧系は、もっとも豊かでありかつ教養も高く、ヨーロッパ諸国に溶け込んで一定の社会的な身分を確保してもいる。それゆえかれらは、自分の住んでいる国に溶け込もうとする傾向が強く、したがってシオニズムには否定的である。シオニズムの主な担い手は、東欧のユダヤ人だった。かれらは西欧のユダヤ人とは違って、周囲の社会に溶け込むことはなく、自分たちだけでゲットーを作って集住し、孤立した生活を営んでいた。それがポグロムを仕掛けられる主な原因となった。そのかれらが、イスラエルに安住の地を求めたわけだ。東欧のユダヤ人のパレスチナへの移住はすでに19世紀の末に始まり、1905年の第一次ロシア革命ののちに本格化した。その革命にともなう東欧社会の混乱を背景にしてポグロムが頻発し、多くの東欧系ユダヤ人たちがパレスチナをめざすようになったのである。

そんなわけで、第二次大戦が終わり、イスラエル国家建設の機運が高まると、その先頭に立ったのは東欧からパレスチナにやってきた東欧系のユダヤ人だった。その後、西欧や中近東・北アフリカのユダヤ人もやってきたが、国家の運営に直接タッチしていたのは東欧系のユダヤ人だったのである。したがって初期のイスラエル国家は、東欧のユダヤ人の伝統を踏まえて作られていった。ドイッチャーは、初期のイスラエル国家を特徴づける最大のものとして「キブツ」をあげている。「キブツ」は、東欧からやってきたユダヤ人が、自分たちの共同体のモデルとして設定したものだったが、徹底的な協同主義を原理としており、「共産主義体制」と言ってもよいほどだった。最大の特徴は、財産の共有のみならず、子供も共同体全体のものだとする思想が貫徹されていたことである。子供は共同体全体で育てるのであって、親の独占すべきものではない。子供が親と過ごすのは一日のうちの二時間ばかりにすぎず、大部分の時間は共同生活にあてられるのである。そうした共同体の在り方は、ロシアのナロードニキの思想に鼓舞されたのであろうとドイッチャーは言っているが、もしかしたら、ユダヤ人の歴史に刻まれた原始共産制への郷愁がしからしめた可能性もある。かつてマルクスは、共産主義社会のイメージに触れる際に、女の共有について言及したものであるが、女の共有というのは、家族の否定に他ならない。「キブツ」は家族を全面的に否定するわけではないが、しかし家族より共同体のほうを中心として考える点で、原始共産制に近いものを感じさせる。

かかる具合に、ドイッチャーがイスラエル国家を肯定的に論じるのは、それがコミュニズムの壮大な実験という性格を持っていることに、大いなる関心をよせたからだといえなくもない。だからといって、イスラエル国家のやることを全面的に肯定するわけではない。とくに、ユダヤ人のパレスチナ人への理不尽な扱い方については、道理的にも実際的にも賛成できるものはないと考えていた。

ドイッチャーが死ぬ直前、つまり1967年の6月にいわゆる六日戦争が起った。それについてドイッチャーはすぐさま反応して、批判的な文章を書いた。この戦争はイスラエル側の先制攻撃で始まり、イスラエルの圧勝に終わったのであるが、大方のユダヤ人がその勝利に酔っているさなか、ドイッチャーはそれに冷や水を浴びせるような一文をしたためたのである。これはイスラエルには短期的な利益をもたらすかもしれぬが、長期的に見れば、中東におけるイスラエルの立場をますます孤立させ、周囲の国々の憎しみを深めるだけだと言うのである。ドイッチャーは言う、「それはイスラエルの安全性を増すどころか、1967年6月5日以前よりもさらに不安定な状態にイスラエルをおとしいれたのである。イスラエル軍のあまりにもあっけない勝利に終わった『六日間の奇跡』はいずれ近い将来において、イスラエルにとっての初の悲劇であったことが判明することであろう」と。ドイッチャーのこの予言は、21世紀に入ったいまでも実現してはいないが、イスラエルの横暴な振舞い方には国際的な批判の声が高まってきてもおり、今後ともずっとイスラエルが侵略的に振舞い続けられるという保証はないように思える。





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