ロゴス中心主義:デリダの形而上学批判

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ロゴス中心主義とは聞きなれない言葉だ。人間の知的活動はロゴスを基礎としており、ロゴスという概念は、人間という概念と同じように明白なものであるから、あえてそれについて云々する必要もなかった。中心もなにもなく、ロゴスとは人間性と同義といってよかった。中心というと、いくつかの事象があって、その中のもっとも肝心なものというイメージになるが、ロゴスは人間性そのものなのであって、そもそも中心とか周縁とかいうものとは無縁なのである。そのロゴス中心主義という言葉をデリダは、西洋形而上学批判の土台の一つとして設定する。ロゴス中心主義とならぶ形而上学批判の土台にはほかに、音声中心主義があげられるが、デリダはその音声中心主義とロゴス中心主義とは深く結びついているという。「ロゴス中心主義とは、表音的文字言語の形而上学である」(足立和弘訳)というのだ。表音的文字言語とは表音文字のことだが、それは音声を文字化したものである限り、音声中心主義と結びついているのである。

だがデリダはどういうつもりで、ロゴス中心主義を表音文字の形而上学だというのか。それを理解するためには、かれが表音文字という言葉でなにをさしているかを確認する必要がある。ここでかれが表音文字と言っているのは、音声を文字で表現したものである。その音声は記号としてなにものかを意味している。つまり意味するものとして、意味されるものを代理しているわけである。その場合、意味するものは独自の体系をもっている。その体系の中での差異が、意味の根源である。意味とは、他のものとの差異であるかぎり、そこには分節の作用が介在する。差異とは分節の産物なのである。人間の知性は、そうした分節の上に成り立っている。それを哲学の伝統的な言い回しで、分別知という。人間の知性とは、分別知だというのが、西洋思想の、したがって形而上学の根本思想なのである。

こういうと、ごく当たり前のことを言っているように聞こえる。だがそう聞こえるのは、すでに西洋の形而上学の伝統に従ってしまっているからである。人間はたしかに分別のある生き物であるが、しかし分別だけで生きているわけではない。人間には欲望もあるし、崇高なものへのあこがれの気持ちも持っている。その崇高なものへの憧れが宗教の源泉である。人間とは、きわめて複雑な生き物なのであって、その活動は分別知的なものに限られるわけではない。ところが西洋の形而上学の伝統は、人間を単に分別的な存在に還元してしまった。それでは人間をトータルに把握することにはならない。人間を人間としてトータルに把握するには、分別知の限界を超脱して、人間をさまざまな要素の統合体として見る必要がある。

具体的にはどういうことか。人間の知的活動の現場に即して考えることだ。われわれが対象を認識するのは、それを分節することを通じてである。だが、対象の認知とその分節との間には、時間的なクッションがあるのがふつうである。それはほとんど意識にのぼらないのだが、その理由は、対象を認知すると同時に分節が始まるほど、われわれにとって分別の働きが自然に身についているからだ。そこで、その分別が働く以前に、分別以外のメカニズムを通じて対象を受容したらどういうことになるか、そこを考えてみる価値はある。そうすることで、人間には分別知以外の能力も備わっていると気づくことができる。

分別知以外の知、それは分別以前の知である。そういう地を、西洋哲学の伝統は認めてこなかったが、だからといってないということではない。そういう知に気づいて、それを大事にする文化もある。たとえば仏教圏の文化である。仏教圏では、分別以前の知を大事にする伝統がある。それを無分別の分別などといって、分節化以前の根源的なあり方を重視する。仏教でいう空の思想とはそういうものだ。空とは無ということではなく、実体がないということだが、実体とは分節された知という意味である。それを西洋形而上学の言葉でいうと、ロゴス的な知ということになる。

つまり西洋の形而上学の伝統は、人間のさまざまな能力のうち分別知の能力だけを取り出して、それで以て人間の知全体を代表させてしまった。その結果、人間の本来的にトータルな存在としての多様性が無視され、頭でっかちのいびつな生き物に引き下ろされてしまった、というのがデリダのロゴス中心主義批判の眼目のようである。

ここでロゴスという言葉に立ち戻りたい。ロゴスとは差異の体系である。そして差異とは分節である、とデリダは言っている。その上でデリダは、ロゴス中心主義の批判にとりかかるのであるが、しかし、一方では、ロゴス中心主義が人間のとらえ方を偏頗なものに貶めたと非難しながら、もう一方では、分節は人間の知的活動にとって不可欠なものであるという理由で、それをパスするわけにはいかないとも言っている。つまりデリダは、ロゴス中心主義の批判を、ロゴスの作用を用いてなさねばならぬというわけである。そこは、形而上学を批判するのに、形而上学に頼らざるを得ないという事情に通じるものがある。あの、ニーチェにしてからが、西洋哲学の伝統的な概念に頼らずには、西洋哲学を批判することはできなかったのである。





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