行持その二:正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第十六「行持」の下巻は、禅の初祖達磨とその弟子で第二祖といわれる慧可についての解説に大部分があてられる。それに第四祖大医道信が続き、そのあとに曹洞系の古仏が何人か取り上げられる。ただその分量は、如浄の部分を除けばわずかなものであり、臨済系と比較して均衡を失するほど少ない。道元がどういうつもりでこのような構成をとったか、にわかにはわからない。臨済に比べると、曹洞系の古仏はより達磨の教えに忠実であり、したがって達磨の説いたところを納得すれば、それでよいと考えていたのかもしれない。

その達磨について道元は、言葉をきわめて礼賛している。「仏仏嫡嫡相伝する正法眼蔵、ひとり祖師のみなり」と言っている。達磨だけが、釈迦牟尼の教えを直に受け継いだ正統の仏祖だというのである。ところがその達磨が初めて中国に来た時、中国の人々は、その偉大さを理解せず、「ただ尋常の三蔵および経論師のごとくに」思ったのだった。そうした中国人の態度を典型的に表したのが、梁の武帝だった。武帝と達磨の間にかわされた会話を道元は逸話として紹介している。

武帝が達磨に問うて言うには、「如何是真功徳」。達磨応えて曰く、「浄智妙円にして、体自ら空寂なり。是の如くの功徳は、世を以て求めず」。武帝又問うて曰く、「如何ならんか是れ聖諦第一義諦」。達磨の答えは、「廓然無聖」。大空の如く広々として、聖も非聖もないというのである。これにむっとした武帝は、「朕に対する者は誰そ」、つまりお前は何様のつもりかと問いつめた。それに対して達磨は、「不識」、そんなことは知らんと答えたのである。

このやり取りから、梁には見込みがないと感じた達磨は、北方の魏に向かったが、「魏主も不肖にしてしらず、はぢつべき理もしらず」といった有様だった。それでも達磨は、魏にとどまって、「くにをすてず、人をすてず。ときに菩提流支の訕謗を救せず、にくまず。光統律師が邪心をうらむるにたらず、きくにおよばず」という姿勢を貫いた。そんな達磨のところにやがて二祖の慧可が現れるわけである。

ともあれ達磨が中国に来なかったならば、中国人は仏道に目覚めることはなく、したがって日本人もいまだに蛮人のままにとどまっていたであろうとして、次のように道元は言うのである。「初祖は釈迦牟尼仏より二十八世の嫡嗣なり。父王の大国をはなれて、東地の衆生を救済する、たれのかたをひとしくするかあらん。もし祖師西来せずば、東地の衆生、いかにしてか仏正法を見聞せむ。いたづらに名相の沙石にわづらふのみならん」。

以上を踏まえて道元は、仏教の真髄を中国に伝えた達磨とその後継者たちの偉大さをつぎのようにたたえる。「いまの見仏聞法は、仏祖面々の行持よりきたれる慈恩なり。仏祖もし単伝せずば、いかにしてか今日にいたらん。一句の恩なほ報謝すべし、一法の恩なほ報謝すべし、いはんや正法眼蔵無上大法の大恩、これをこれを報謝せざらんや。一日に無量恒河沙の身命、すてんことねがふべし」。

二祖慧可は、仏道に邁進する己の真剣さを証するために、自身の肘を切り取って見せたという逸話がよく知られている。道元もその逸話に触れている。その場面が次のように描かれる。まづ達磨が修行の厳しさを強調し、お前にそれに耐える自信があるのかと問う。「諸仏無上の妙道は、曠劫に精勤して、難行能行す、非忍にして忍なり。豈小徳小智、軽心慢心を以て、真乗を冀はんとせん、徒労に勤苦ならん」。すると慧可は、「ひそかに利刀をとりて、みづから左臂を断って置于師前するに、初祖ちなみに、二祖これ法器なりとしりぬ」。慧可の捨て身の行為が、達磨の心を動かしたのである。達磨は次のように言って、慧可の決意の固さをたたえる。「諸仏、最初に道を求むるに、法の為に形を忘る。汝今、臂を吾前に断つ、求むること亦可なること在り」。

その慧可が、達磨から受けた教えを、次の世代に直伝し、さらにその世代がまた次の世代に直伝するという流れを通じて、仏教の教えの真髄が、道元の代まで受け継がれてきたというのである。

禅は心を旨とするがゆえに、外形にはこだわらないということを、慧可の断臂の逸話は物語っているのであるが、その外形にこだわらぬという姿勢は、次のように説かれる。「おほよそ初祖、二祖、かつて精藍を草創せず、薙草の繁務なし。および三祖、四祖もまたかくのごとし。五祖、六祖の寺院を自草せず、青原、南嶽もまたかくのごとし」。

もっとも道元自身は、北陸の山中に伽藍を営んだのではあるが。






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