江川卓「ドストエフスキー」を読む

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江川卓はロシア文学者であって、ドストエフスキーの作品も多数翻訳している。その江川がドストエフスキーを論じたのが、岩波新書に入っている「ドストエフスキー」だ。ドストエフスキーの作品世界を、伝記的な事実と絡ませながら論じている。たいして独創的な知見はうかがわれぬが、いくつか興味をひく指摘がある。

まず、「ゼロの語り手」という言葉で言及されているものだ。これは、小説とは基本的に「語り」であるという前提に立ったうえで、その語りを作者がするのか、あるいは、作者は表に立たないで、架空の人物に仮託して語らせるかに応じて、小説の語り方が違ってくる。ドストエフスキーの場合は、架空の人物に託して語らせ、作者自身が表に出てこない体裁のものが多い。そういう創作態度を江川は「ゼロの語り手」という。つまり作者が不在の語りというわけである。そういわれれば、処女作「貧しき人々」が往復書簡という体裁をとっており、作者がまったく出てこないということに、思い当たらせられる。

語り手が複数あり、しかもそれぞれの語り手がてんでに自分の言いたいことを言うというシチュエーションもありうる。そういうケースでは、複数の語り手が同時に違ったことを語るわけであり、構成的に破綻しやすいはずだが、ドストエフスキーの場合には、その複数の語りが互いに響きあって、独特のハーモニーが生まれる。それを「ポリフォニー」と名付けたのは、ロシア・フォルマリストのバフチンだが、江川はこの「ドストエフスキー」論を書くにあたって、バフチンらロシア・フォルマリストの説を大いに意識しているように伝わってくる。先ほどの「ゼロの語り手」という言葉も、ロシア・フォルマリストの一人エイヘンバウムのモットーである。

次に「ユロージヴィ」について。これはドストエフスキーの小説に出てくるある種の人物像を形容した言葉で、日本語に訳すと「聖なる道化」といったような意味の言葉だ。日本の小説世界では、こういう人物像は全く出てこないが、ドストエフスキーの小説は、そうした人物像のある種神話的な振舞いが、独特の世界を作り上げている。「白痴」の主人公ムイシュキン公爵はユロージヴィの一典型である。「カラマーゾフ」に出てくるアリョーシャもムイシュキン公爵と同じようなユロージヴィとして描かれている。そのほか、「罪と罰」のソーニャとリザヴェータ、「悪霊」のマリア・レビャートキナ、「未成年」のヴェルシーロフなどにも「ユロージヴィ」の特徴を見ることができる。バフチンが、ドストエフスキーにおける「広場の笑い」と名付けたものは、このユロージヴィたちが醸し出すのである。

「広場の笑い」は神話的な衣装をまとうことが多い。ロシアの神話は、キリスト教以前のロシア土着の世界観を反映したものが多いが、そうしたロシア土着の神話的な雰囲気がドストエフスキーの小説世界には充満していると江川は言うのだ。ドストエフスキーの小説には、「分離派」と呼ばれる宗教セクトがたびたび登場する。そのセクトは、ロシア正教の集権化に対抗して生まれたものだが、そこにはロシア土着の世界観がかなりかかわっていたようである。ロシア土着の世界観が、キリスト教の侵略的な振舞いに対抗して、分離派を生んだというわけである。

「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフにしてからが、分離派を意味する「ラスコーリニキ」をもじったものだ。「死の家の記録」に出てくる柔和な老人、「未成年」のマカール老人、そして「カラマーゾフ」のゾシマ長老などはみな、分離派の思想の持ち主である。ということは、ドストエフスキー自身にそうした分離派の傾向があったと江川は言いたいようである。

たしかに、あやしげな民族主義に染まっていった晩年のドストエフスキーからは、分離派的な神がかりな面を感じとることができる。江川はそんなドストエフスキーの分離派的な傾向は、若いころからのものだったと捉えているようである。分離派の特徴は、苦難を栄光として受け止めるということにある。そうした自虐的な姿勢は、ドストエフスキーの小説世界の多くの登場人物たちに見られるところである。

自虐的な人間は、他者からの迫害を呼び込みやすいといわれる。そこから差別のメカニズムが生まれる。ドストエフスキーの小説には、「カラマーゾフ」のスメルジャコフを筆頭に差別され虐げられる人間像が多数出てくる。そうした被差別性へのドストエフスキーのこだわりを、江川は、ドストエフスキーが癲癇患者として自分自身へのコンプレックスをもっていたことに結び付けている。ドストエフスキーの精神病体質については、もっと深い事情が絡んでいると思われるので、そう単純化するわけにはいかないが、かれが異常な精神状態に強いこだわりを持っていたことは事実といえるだろう。

この小論を通じて江川は、ドストエフスキーを「われらの同時代人」と定義づけ、その現代的な意義について繰返し強調している。江川によれば、ドストエフスキーの現代的な意義は、かれがソ連の全体主義を予見していたということにあるらしい。江川がそういうわけは、ソ連への江川自身の嫌悪感を、ドストエフスキーによって根拠づけたいということらしいが、ドストエフスキーが小説世界の中で描いたのは、同時代のロシアの混沌とした現実であって、未来のソ連体制を予感していたわけではない。





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