死を考える:落日贅言

| コメント(0)
落日贅言の前稿「歴史と人間の終わり」の結びの部分で、ミシェル・フーコーが言ったことば「人間の終わり」に言及した。フーコーはこのことばを、「人間性の終わり」という意味で使ったので、必ずしも種としての人間の終わりを意味したのではなかったと思う。だがやはり、「人間の終わり」などと言われると、種としての人間の終わりをイメージせざるを得ないし、その前に、自分自身の死についても考えざるをえない。とくに小生のようにすでに古稀を過ぎた老人にとっては、もはやいつ死んでもおかしくない年頃ではあり、したがって明日にでも、死が自分自身におとずれるかもしれない。その場に及んで騒いでも後の祭りだと思うので、もうそろそろいつ死んでもいいように、心の準備をしておくのも、あながち無駄なことではないと思う。そんなわけで今回は、「死を考える」という題目で、自分自身の死を含めて、人間にとって死とは何かということについて考えてみたい。死をめぐる自分の考えについては、いままでも「反哲学的省察」などを通じて表明してきたところなので、一部はそれをダブるところもあるが、今の時点で、小生が死について思うところを包括的に述べたいと思う。

小生は年少の頃からけっこう死を気にするタイプだった。祖父や伯父など身近な人の死にたびたび接したことが背景にあったのかもしれない。多くの人々が死について抱いている観念は、死そのものというよりは、人間が死後に行くべき世界とか、死者が生者の心のなかにどのように生き続けるかというたぐいのことだ思うが、小生の場合には、死そのものが怖ろしく思えた。小生にとって死とは、死ぬ瞬間とその後に続く死後のことではなく、死に先立つ苦痛だったように思う。これは子供にとっては自然な感じ方だ。子供は、死にゆく人々の苦痛に満ちた表情を見ることで、死が人間に巨大な苦痛を与えるということを実感させられる。その実感が、死への恐れを呼びおこすのは当然のことだ。小生の場合にも、そうした死に伴う苦痛への恐れが、死そのものへの恐れへと発展したのだと思う。

死への恐れは、実は死に先だつ苦痛への恐れに過ぎない、とする見方があることは小生も知っている。大江健三郎はそのような見方に立って、死への恐れを緩和しようと試みた人だ。かれは死について非常に達観していたようだから、おそらく自分自身従容として死を迎えたのだと思う。その場合に、死に先立つ苦痛を最大限コントロールしたのだろう。苦痛をコントロール出来て、苦しまないでいられる限り、人間は、それこそ枯葉が枝から落ちるように、無理なくこの世を退出できると思うのだ。小生自身そのことを身を持って体感したことがある。小生は癌の手術のために全身麻酔を施され、数時間にわたる手術の末に目覚めたのであるが、その時に思ったことは、このまま目覚めなければ、自分は全く苦痛なしに死ぬこともできただろうということだった。

たしかに苦痛なしに死ねるのであれば、死を恐れる必要はないのかもしれない。そのような死を前提として、死を恐れる理由は全くないと主張したのは、ギリシャの哲人エピクロスであった。エピクロスは、スピノザやマルクスの先輩の唯物論者で、死についても唯物論特有の楽天的な見方をしていた。エピクロスは死を恐れる必要がないことの理由として、人間はそもそも自分の死を経験できないということをあげた。エピクロスによれば、人間は自分の経験できないことについて、感じたり恐れたりすることはできない。ところが生きている間には、人間は死んでいないのであるし、死んでしまってはもはや生きてはないのだから、生きながらにして死を経験するということはありえない。だから、人間は自分の経験できないものであるところの死について、なんら恐れる根拠がない、そうエピクロスは言ったのだった。こうしたエピクロスの主張は、ギリシャの衣鉢をついだ西洋の哲学者たちにとっては、心の慰めになる考えだし、さももっともらしい理屈のようにも思えた。それゆえ、あのカントも、エピクロスの唯物論的な傾向には眉をしかめつつも、死についての彼の楽天的な考えについては賛意を表したのである。

もっともエピクロスの主張が無理なく受け入れられるのは、苦痛のない死の場合であって、苦痛を伴った死については、そう簡単に割り来ることはできないであろう。苦痛にさいなまれながら死んでいく人は、その苦痛そのものが死のプロセス全体であって、したがってその苦痛こそが彼にとっての死である。そのような死を自分もまた迎えると知ったら、人間はたじろがざるを得ないのではないか。大江は、死に先立つ苦痛こそが、死の恐れの全体を覆うといったが、その苦痛が取り除けないのであれば、人間は死を恐れざるを得ない。いかに死につつある言えども、生きながらにして苦痛にさいなまれているわけであるから、その苦痛にゆがんだ顔を見ながら、死を恐れずにいることはむつかしいであろう。

こういう怖れが生じるのは、人間が孤独な生き物ではなく、他者とともに生きていることからくる。自分だけしかいない世界に生きていれば、自分の体験できないことにあれこれ思いまどうこともない。したがって死を恐れる理由もない。死は(エピクロスもいうように)自分の体験できないことであって、自分しか生きていない世界にあっては、そもそも問題にならないからだ。ところが人間は、自分だけが生きている世界にいるわけではなく、他者と共に生きている。その他者が自分の目の前で死んでいく様子を、人間は見つめざるを得ない。極端な独我論者でもない限り、他者の自律性と、その他者と自分自身との関係性について自覚的にならざるをえないように人間はできている。その他者の死を前にして、とりわけそれが自分の肉親だったり、愛する人だったりすれば、その人の死について無関心ではいられないし、他者の死を鑑として自分自身の死についても考えざるを得ない。ということは、死というのは、全くの個人的なことがらではなく、公共的な性格を併せ持っているといえるのではないか。人間に宗教意識が発生したのは、死について人間が自覚的になったことによると言われるのは、死の公共的な性格を物語っているのではないか。

死の公共的な性格に着目した思想家としてレヴィナスがいる。レヴィナスは、他者の問題をはじめて哲学の主要テーマに引き入れた人であるが、他者を前提とすることで、哲学には新たな地平が生じた。他者の問題は、死にとどまらず、人間性をめぐるあらゆる問題にかかわっているが、なかでも死は、他者の存在なくしては決して自覚的にあつかわれることはない。人間はまず他者の死に接することで、人間は死ぬべき存在だと自覚し、その自覚にもとづいて、自分自身の死や、すべての人間にとって共通する問題としての死を自覚するのだ。

死を個人の問題としてではなく、公共的な問題としてとらえる視点からは、人間性についての新たな見方が生まれてくる。それは、人間性の決定的な要素として死を取り入れる見方、言い換えれば人間を死すべき存在とする見方である。そうした見方を最初に本格的に提示したのはハイデガーだった。ハイデガーはレヴィナスより以前の哲学者であり、しかがって他者の問題についてそんなに自覚的ではなかったが、それでも人間を死すべき存在として見ることについては、レヴィナスの見方を先取りしていた。死すべき存在ということは、有限な存在だということである。ハイデガーは人間を、有限な時間を生きるものとして、死に向かって生きる存在だと定義した。時間という概念は、無限な存在者には無縁なものである。有限であるからこそ、時間の観念が意味を持つ。

ハイデガーには色々興味深いところがあるが、人間の存在意義を、その全体性から評価するという考えは非常にユニークなものだ。一人の人間の存在意義は死んで初めて評価が定まるとよく言われるが、ハイデガーはそうした考えを逆手にとって、人間は常に自分が死ぬべき時を基準にして、今を生きよと言っていた。これは、自分の死は先延ばしされた現在ではなく、逆に未来の死を基準にして、それとつじつまが合うように現在を生きよということで、つまり自分の人生全体に責任を持てということであろう。これはかなりしんどい要求ではあるが、一部の人たちには励みになることばであろう。

死の扱い方が、かなり拡散した方向に飛んでしまったようなので、ここでもう一度、自分自身の死にもどりたい。自分自身の死ということになると、たいていの人は苦痛なく死ねればそれでよいと考えるのではないか。しかし、そんなに簡単に死ねるとは限らない。世の中には、死に損なったおかげでとんだひどい目に合う人もいるようなのだ。ここで思い浮かぶ例は、エドガー・ポーの小説「早すぎた埋葬」だ。これは死んでしまったと思われた男が、埋葬された棺の中で生きかえったしまったことをテーマにしたものだが、その折の恐怖と絶望が、ものすごい迫力を以て描写されていた。この小説を読んだ者はだれでも、こんな死に方はしたくないと思うであろう。その男は、生き返ったはいいが、そのまま生き続けるわけにもいかず、絶望しながら死を待つほかはなかったのである、男は思ったであろう。なぜ俺だけがこんな目に合わねばならぬのだ、と。その思いは、あのマクベスの思いに通じている。マクベスも自分の死を前にして思うのだ。なぜ俺だけが死んで、他のものは生き残るのだ、と。





コメントする

アーカイブ