ルソーの言語論:デリダ「グロマトロジーについて」

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デリダの書物「グラマトロジーについて」の第二部は、ルソーの言語論をテーマにしている。この第二部は、書物全体の三分の二以上を占めているので、それからしてもデリダが、ルソーの言語論を重視していたことは伝わってくる。ルソーには、言語を主題とした著作が複数あり、そうした著作の中では、人間の文明の起源について深い考察を加えているので、とかく「社会契約論」ばかりに注目するあまり、ルソーのもつ壮大な文明論のスケールが無視されていることを考えれば、デリダのルソー論は、ルソーを単なる政治思想家としてではなく、文明論者としても捉えなおすものだといえよう。

こう言うと、デリダがルソーを、自身の形而上学批判の先駆者のように捉えていると思わせられるところだが、じつはそうではない。逆にデリダはルソーを西洋形而上学の伝統の中に位置づけている。デリダはルソーを、「ロゴス中心主義的形而上学と現前の哲学」に所属していると見るのである。だからルソーの言語論を主題にすることは、ルソーを西洋形而上学の伝統を体現したものとして、批判することになるだろう。じっさいこの第二部は、ルソーの言語論への徹底的な批判にあてられているのである。その批判を通じて、(ルソーが体現している)形而上学の根本的な意義が明らかにされていく。それが形而上学の全面的な解体へ向けての手がかりを与えてくれる、そうデリダは考えているようである。

ルソーの言語論を、ごく単純化していうと、パロール中心主義である。パロールつまり音声言語こそが言語の本来的な姿であり、文字言語はその堕落した形態であるので、それは排除されねばならぬというのが、ルソーの基本的な考えである。こうしたパロール中心主義的言語論は、近代のソシュールが展開したもので、言語学についての主流の見方であったといえるのであるが、そうした見方をルソーは徹底させた。ソシュールには、パロールを重視してエクリチュールを派生的に見る見方はあったが、エクリチュールそのものを否定することはなかった。ルソーの場合には、できうれば人類は、文字言語なしで生きるべきであるといったような、エクリチュールへの徹底的な敵対意識がある、とデリダは言うのである。

ルソーのそうした文字言語への敵意は、文字言語が権力の基盤となってきたという認識に裏付けられている。ルソーがある意味理想化した原始社会においては、共同体の規模は小さく、人々は直接声を交わしあってコミュニケーションすることができた。そういう社会では、「<自己への現前>、差し向かいにおける透明な近接性、声の直接的射程(足立和弘訳)」といったものが実現されており、したがって文字言語はなくてもすむものであり、かえって社会的な関係を疎遠にさせるようなものであった。

文字言語の出現は、突然のものであり、準備されたものではない、とルソーはいう。ということは、文字言語の出現は、言語の本性にもとづいた内在的な要因によるものではなく、言語にとって外在的な意味合いの出来事である。言語は文字なしでも機能し得るのであり、だからなるべく文字なしで、音声によって直接コミュニケーションをはかるほうが望ましいのである。

しかしいったん文字言語が出現すると、社会はそれなしでは成り立たなくなる。文字言語の出現は、ルソーによれば、人間の間に分裂が生じ、その分裂を前提にして、支配=被支配の関係、つまり権力が生まれたことと結びついている。権力は小さな規模の社会でも生じうるが、やはり規模が大きく、一定程度複雑なシステムの社会において、その本来の機能を発揮する。ルソーの理想とした原始社会には、そうした権力が生まれる余地はなかったのである。そこは、ホッブスとルソーとの、原始社会についての見方が根本的に異なるところだ。ホッブスは、原始社会は万人が万人と闘争状態にある社会としてイメージしたが、ルソーは基本的には、闘争のない牧歌的な社会としてイメージしていた。

権力は人間による人間の搾取を本質としているから、その権力に奉仕する言語は、いきおい暴力的な性質を帯びざるをえない。デリダは、原エクリチュール自体に暴力の契機を認めるのであるが、ルソーもまた、文字言語に暴力性を認めていた。「文字言語そのものは、その起原において人間による人間の搾取に基礎を置いている社会にだけ恒久的な仕方で結びついているように思われます」というのはルソー自身の言葉である。

権力は、いったん確立されると、被支配者に文字の能力をつけさせることに利害を感じるようになる。そのことをルソーは次のように言っている。「文盲にたいする闘いは、『権力』による市民のコントロール強化と一つになる。なぜなら、誰も法をしらないとはみなされないと『権力』が言い得るためには、全員が読めなければならないのだから」。ルソーのこの言葉は、明治維新期の日本に、もっとも典型的なか形であてはまるであろう。権力を握った藩閥政府は、自分たちの権力の正統性を国民に認めさせるためには、国民文盲のまま放置しておけなかった。だから維新政府が最初にやったことは、義務教育を課すことだったのである。

このようにルソーの言語論は、権力とか統治といった問題と深く結びついている。言語の問題は、単に言葉の内部にとどまるものではなく、人間の文化全体の土台になっているとルソーは考えた。言語を政治の問題として取り上げたのは、ルソーが最初であろう。とりわけ文字言語は、政治的な権力と深い結びつきをもっている。ルソーが文字言語に対して異様なほど敵対的なのは、文字言語のもつ政治的な機能に敏感だからである。かくして、言語と権力とを結びつけるところから、ルソー独自の文明論が形成されるのである。ルソーの文明論とは、権力と一体化した言語に関する言説の体系ということができよう。

そういう視点は、デリダもルソーと共有しているということができる。だが、デリダがルソーに同意するのはそこまでで、それを超える部分では、ルソーを形而上学の伝統の中に位置づけたうえで、その伝統を、ルソーともども粉砕するにはどうしたらよいか、という別の問題意識へと移行していくのである。






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